756. 昨日飛べなかった幼いカモメが姿を消して


あれは夜中だったか、明け方だったか。

うっすらとした意識の中、鳥の声を聞いていた。

「ああ、きっとあのカモメはまだ飛び立つことができていないんだろうな」と思った。

昨日の朝、1階の庭から飛び立てずにいた幼いカモメをオーナーのヤンさんが捕まえ、屋根の上に乗せた。しかし、その幼さからか、それとも別の理由があるのか、幼いカモメは、中庭に連なるガーデンハウスの屋根の上から飛び立つことはなかった。昨晩、随分遅い時間になっても(それでも外は明るかったが)声を上げるカモメは、途方に暮れているように見えた。

そんな幼いカモメを上空から何羽ものカモメが見守っていた。

猫が近づこうものならあちこちからカモメが舞い降りてくる。私にも向かってくる。

夜中はどうするのだろう。これからどうするのだろう。

そんなことを考えながら眠りについた。

身支度をし、沸かした湯を小さな煎茶椀に注ぎ、温度が下がるまでの間、バルコニーで中庭を眺めるのは、朝の習慣となっている。夜中に降った雨がまだ微かに続いているようで、水たまりは僅かに揺れている。

あの幼いカモメはどこにいるのだろうか。

そう思いながらバルコニーに出た。

正面の家の屋根にカモメがとまっている。ということは、どこかに幼いカモメがいるはずだ。

また、上空からカモメに威嚇されるのだろうか。

そんなことを思う。

鳥の鳴き声は聞こえるが、その中に昨日の朝聞いたような、悲痛な声はない。

中庭を見回してもガーデンハウスの上に小柄なカモメの姿はない。

と、一羽のカモメが上空を横切った。体がくすんだ灰色をしている。

あのカモメだ。

昨日、中庭から出られずに悲痛の声を上げていたカモメ。

屋根から飛び立てずに、うろうろしていたカモメ。
上空からたくさんのカモメたちに守られていたカモメ。

その、カモメが今、悠然と空を飛んでいる。

身体は小さいが、もうずっと前から空を飛んでいたかのように、堂々と。自由に。

なんという生命の力だろう。

カモメのDNAには「飛ぶ」という力が埋め込まれているのだ。

他のカモメたちが飛ぶ姿を見て、ひとり寂しい思い、悔しい思い、恐ろしい思いをして、あるとき羽を広げ、動かす。

そういえば昨日、幼いカモメが「飛ぼうとしている様子」は目にしなかった。どうやってあの鳥は飛べるようになるのだろうと思っていたが、飛ぼうとさえすれば、もう飛べたのかもしれない。

中庭から出ることのできなかったカモメは、空に舞い、そして今まさに「鳥の目」を手に入れている。

きっと今となっては、なぜ自分が飛び上がることができなかったかさえ分からないだろう。

あのカモメはこれからきっといろいろな街を見ることになるだろう。

この二日間でカモメたちが教えてくれたこと。

それは、私たちそれぞれの中に、発露することを待っている可能性があるということ。

羽を広げて羽ばたこうとすれば、何かが起こるということ。

それに対して周囲ができることは、ただひたすらに見守ることだということ。

命を守る手助けをすることはできても、代わりに飛ぶことはできない。

空を舞う姿を見せることはできても、無理やり相手を飛ばせることはできない。

たとえ日が暮れようとも、見守ることを諦めない。

自分はそんな姿であれているだろうか。

これから、何食わぬ顔で上空を横切るカモメを見るたびに、あの、空を飛んだ幼いカモメのことを思い出すだろう。2020.7.16 Thu 7:44 Den Haag

757. DNAに刻み込まれた可能性と進化のプロセス

 

この庭に今日はどのくらい光が差していたのだろうか。どのくらい影ができていたのだろうか。雲に覆われ、暮れて行っているかも分からない空を見上げてそんなことを思う。

飛ぶことのできない幼いカモメの行く末を案じ、そんなカモメが何事もなかったかのように空を飛んでいた驚きを感じたのが、もう随分と昔のことのように感じている。

昨日飛べなかった鳥が、今日飛んでいる。

空を飛べない人間にとっては驚くばかりだ。

昨日は、長く続いた「飛べない日」の最後だったのかもしれない。これまで数日、数週間、数ヶ月、そんな日が続いていたのかもしれない。どのくらいの期間があって今日の日を迎えたかは分からないが、間違いなく言えるのは、カモメは自ら飛んだということだ。自らというよりも、自ずからだったのかもしれない。力を振り絞ってというよりも、自然な流れの中で。

すでに飛べるカモメたちは、その姿を見守っていた。猫に襲われないようにと周囲で何羽ものカモメが見守っていたが、それ以上のことはしていなかった。もし仮に、周囲のカモメたちが世話を焼いて、近くに行って一緒に過ごしたり、食べ物を届けたりしていたらあの幼いカモメは飛びあがらなかったかもしれない。

「あなたのことを見守っているよ。あなたも飛ぶことができるよ」

上空を飛び回っていたカモメたちの姿を思い出し、そんな言葉を想像している。

ここには私の想いが強く重ねられているだろう。

私は、人は自分自身で新たな一歩を踏み出していけることを信じているのだ。

ここのところずっと、コミュニケーションや対話について考えている。

先日聴講したオンラインでの対談の中ででてきた「dialogue with」という話を思い出し、そう言えばcommunicateは、communicate tocommunicate with、どちらも使うことがあるということが浮かんできた。ネイティブにとってどうなのかは定かではないが、ざっくりと用法を見る限り、to の場合は一方通行、withの場合は双方向という使い分けがあるようだ。

こう考えると、日本語というのは対象や形式・関係性を曖昧にすることができる性質があるということを改めて感じる。例えばフランス語では「友人と出かける」と言う時に、それが男性なのか女性なのか、一人なのか複数なのか、さらにはただの友達なのか特別な人なのかまで表現すると聞いたことがある。少しだけ学んでいたドイツ語も確かにそうだった。

言葉の人の行動も、それを行なっている人の視点においては何かの合理性があるはずで、日本においては曖昧にすることで得られるもの、大切にされるものがあったのだろう。私自身の感覚としても、人間関係というのは常に変化しているのであって(その大元には自分自身の変化がある)、言葉における曖昧さはその流動性や可変性を受容している態度だとも言えるように思える。

しかしながら、受容することと、無関心でいることには大きな違いがある。

それは、曖昧さというものの存在そのものを認識しているか、そうでないかの違いとも言えるかもしれない。

なぜcommunicateという言葉に着目したかという話に戻ると、私たちは環境ともコミュニケーションを取っているということについて考えていたからである。

現在、人間の進化の歴史や生物学的なコミュニケーションについて探究を深めているが、生物は細胞レベルで身を置く環境とコミュニケーションを取っているということが分かった。そして、単細胞生物と多細胞生物の大きな違いの一つが情報伝達についてであり、単細胞生物が生物的な分離を通じた情報のコピー(二つに別れると同じ生物がいるというイメージ)しかできないのに対し、多細胞生物は細胞間および生物間、環境との間で情報のやり取りをし、それによって自らを変化させるということも知った。

これはまさに、根源的なコミュニケーションの進化であり、toからwithへの進化でもある。

なぜ、進化の方向はtoからwithなのか。それは、外的な情報を取り込むことは時に危険が伴うためだ。「種」という大きな枠組みで捉えると、変化により多様性が生まれることは種の保存に対してプラスに働く。しかし「個」という単位で見ると、自己保存とは逆の現象に身を置くことになり、それは生物の仕組みとして、避けられるべきものなのだ。他者と交わることに耐えうる個が生まれて初めて、生物はtoからwithのコミュニケーションを交わすことができるようになる。

しかし多くの場合、人はtoに止まり続ける。

それは一つには「お手本がそうだった」という正しさがあり、さらには「かつてのか弱い自分にとっては必要だった」という正しさもある。評価をする側、される側という関係性があり、答えを持っているものが優れているという価値観もあるだろう。

しかしこれからはそうはいかない。

何せ、これまで環境を媒介して無意識のうちに行われていたwithのコミュニケーションが大きく減っているのだ。

「わたしたち」を「わたしたち」足らしめる、環境という媒介がなくなったとき、「わたしたち」は、交わされるコミュニケーションによって形作られることになる。と言ってもそれは必ずしも、言語的なコミュニケーションではない。

漠然と生まれている直感だが、人類は空間を共にせずとも、相手の情報空間もしくはお互いの間に生まれた情報空間のような場に身を置くことができるようになるだろうという気がしている。そこでは空間を共にしているような身体感覚や感覚を通じたコミュニケーションができるはずだ。これは、直感とは言え、自分自身がこれまで空間も、視覚情報もともにしない対話を通じて体感・実感してきていることでもある。

ある特定の(もしくはいくつかの)身体や精神の状態をつくることができれば、誰しもが空間の分離を超えられるに違いない。しかしそれにはまだ時間がかかるだろう。もしかしたらそれは、例えば集団的な意識変容を起こす取り組みのようなものによって実現できるかもしれないが、現代の日本社会において公に認められる形でそれを行うことは難しいだろうと想像する。仮にそれができたとして、「向こう側の世界」にある、新たな課題に適応することができないという可能性も大いにある。

そんなわけで、空間を超えることの手前で、環境や空間を共にしない中で「withのコミュニケーションを交わす」というステージが必要になる。

それはスキルというよりも、これまで意識していなかったことに意識を向けること、そして、無意識にできない理由を知ることに始まると思っている。

その一歩は、自分自身がwithで人と共にあることだろう。

今ここにいるその人自身、その人の生きてきた経験、その背景にある文化や慣習、そしてその人の可能性。全てとともにあることができたなら、お互いに想像もしていなかった創造的な世界を共に見ることができるのだと思っている。2020.7.16 Thu 20:33 Den Haag