754. 庭に迷い込んだ飛べないカモメ


書斎の机の前に座ると、ほどなくして階段を上がってくる足音がして、リビングの扉がノックされた。

オーナーのヤンさんは、私がリビングの扉を使っておらず、いつも寝室の扉から出てくることを知っていても、それでもいつもリビングの扉をノックする。それがオランダ人らしさなのか、彼らしさなのかは分からないが、どんなに身近で知った人でも適切な距離を取る、清々しさのようなものを感じる。


寝室の扉を開けると、ヤンさんは「手伝ってくれないか」と言った。先ほど散歩に出た際に1階に住むヤンさんが久しぶりに帰ってきていて、キャンプにでもいくような荷造りをしている姿を見かけていたのでてっきり何か重いものを一緒に運んでほしいのかと思ったが、ヤンさんが口にしたのは「庭に何かがいる」という言葉だった。「何か」の部分は英語かオランダ語の単語が入っていたが、聞き取ることができなかった。

開け放たれたキッチンの扉を通り抜け、庭に続く引き戸を開ける。いつも上から眺めている、美しい庭がそこにある。と、庭の端に小柄な鳥の姿が見える。「二人であの鳥をコーナーに追い詰めるのだ」とヤンさんは言う。「まだ子どもの鳥で、飛べないのだ」と続ける。

 

そういえば今朝はカモメの声が中庭いっぱいに響いていた。

生き物がその生命を守ろうとする時に出す、鋭い声だった。

庭からその声が聞こえる気がするも、鳴き声の主の姿は見えない。

と、一羽のカモメが上空からこちらに向かって飛んできた。一羽ではない。数えきれないほどのカモメが空の低い位置、中庭の上をぐるぐると旋回している。

上空のカモメに攻撃されるのではないかという危険を感じて急いでバルコニーに続く扉を閉じた。

そして今、シーツのような大きな布を持ったヤンさんが庭の池をぐるりと回り、鳥を追い詰めていく。鳥はヤンさんの気配を感じてトコトコとこちらにやってくる。小柄な鳥とは言え、その黒い嘴はなかなか鋭い。「このまま私の方にやってきたらどうしよう」という、微かな恐怖が身体に浮かぶ。手を広げ、身体を大きく見せてみる。

と、ヤンさんが布を鳥に被せた。

暴れる様子はない。

鳥をくるみ、布を持ち上げるヤンさんにそれをどうするのかと聞くと、屋根の上にあげるのだと言う。確かにここにいてはいつ、屋根の上から首を伸ばしている猫に襲われるか分からない。(猫は遊んでいるつもりかもしれないが。)

ヤンさんは丸めた布を片手に壁に立てかけた脚立を数段登り、鳥を屋根の上に放したようだった。

お礼を言われ、少しの言葉を交わし、部屋に戻ってきた。

そして今、その鳥はいまだに屋根の上にいる。

何せ飛べないのだ。

屋根に上げられてすぐは周囲をカモメたちが鳴きながら飛び回っていたが、今は空にはカモメの姿はない。

しかしよく見ると、向かいの家の屋根の上に何羽かのカモメの姿がある。

きっと、猫に襲われそうになったらすぐに助けに来るのだろう。

にわかに声がして、また何羽かのカモメが上空を舞い始めた。

屋根の上の子どものカモメも必死に喉を震わせ声を上げている。

あの鳥はこれからどうなるのだろうか。

いつか飛び立つのだろうか。

上空の鳥たちにできることは、命の危険から守ること、そして飛ぶ姿を見せること。

あの鳥は、自分で飛ぼうとしなければ、飛び上がることはできない。

それを大人の鳥たちが肩代わりすることはできない。

それが自然の摂理なのだろう。

首を伸ばし、キョロキョロと周囲を見回す小さな鳥が心細そうに見える。
というのは、私の心の景色なのだろうか。

そこにある鳥たちの物語を見つめながら、自分自身の物語を見つめている。2020.7.15 Wed 8:20 Den Haag

755. 進化のパラドックス

 

向かいの家の屋根に、カモメが二羽並んでいる。どうやら朝、屋根の上に乗せた子カモメはまだ飛び立てずにいるようだ。その様子を大人の?カモメたちが見守っている。

昼間、子カモメの様子が気になってバルコニーに出ると、すぐさま上空からカモメが飛んできた。これまでカモメがまっすぐに向かってきたことはなかった。もっと速く飛んでくることもできるだろうから、明らかに「近づくなよ」という威嚇だろう。

夜になったらどうするのだろうか。この中庭で遊ぶ猫たちは家猫なので基本的には夜は家の中にいるのだろうけれど、中庭に出てこないとも限らない。

そもそもカモメに限らず鳥は、いつ、どうやって飛べるようになるのだろうか。自然界の中ではそう長く、親鳥に守ってもらうこともできないだろう。あの子カモメは羽の色やぼさぼさの頭の様子から随分と幼く見えるが、幼いという以外にも何か飛べない理由があるのだろうか。

またどこかの家の庭に落ちると、猫に狙われやすくなってしまう。

無事に飛び立てることを祈るばかりだ。

今日も先ほどまでオンラインで開催されていたコーチングサミットのワークショップに参加していたが、一昨日よりは疲労(オンライン酔い)がだいぶ軽減されている。今日はスピーカーが一人だったこと、そして、Zoomの他にもYouTubeで中継が公開されおり、そちらには画像にスピーカーしか映っていなかったため、視覚情報の処理がだいぶ楽だったのだろう。

これまで人類は、自分たちの作った道具によって生活が変わり、それに適応するためにさらに進化をするということを繰り返してきているが、今もまさにそれが起こっているということを実感している。

しかし残念ながら、新しい環境に懸命に適応する多くの人の遺伝子情報は次世代に引き継がれない。遺伝子情報は次世代を残すことによって引き継がれ、そこには環境への適応情報も含まれるが、次世代を残すことなしには引き継がれないのだ。つまり、例えば、ざっくりと40代もしくは50代以上の人は特に新しい環境に適応するのが大変だが、その人たちが新たな子孫を残さなければ、その頑張りは世代を超えて引き継がれるということはないということだ。

一方で、少しの朗報があるとすると、私たちは環境との間でもコミュニケーションを取っており、環境を通じて、他の世代の人たちに自分たちの適応や変化が伝わっていくということである。とすると、直接的に子孫を残さない世代の人たちの努力も無駄ではないということになる。

しかしながら現在のように物理的環境を共有することが少なくなった中では、この、環境を通じたコミュニケーションがどれだけ起こるかは未知数である。

考えてみれば当然のことではあるのだが、自分たちの世代が作り出した環境および技術の変化に適応・対応するというのはなかなか難易度が高く、次の世代になってはじめて遺伝子上の適応が起こるのだ。

これらは昨日から読み進めている生命と情報に関する文献を通じて学んでいることだが、「なぜこれだけ企業研修を続けても企業は変わらないのか」ということに対する、諦めと希望の入り混じった答えだとも感じる。

組織が変わる一番の要因は、結局のところ実質的な世代交代なのだ。

世代交代の際に、新しい世代が、新しい様式に適応した力を発揮することをせめて邪魔しないでいるというのが、上の世代が行うことのできる最善の在り方なのかもしれない。それは例えば、まだ飛び立つことのできない子カモメが外敵に襲われないように上空から見守るような、そんな在り方とも言えるだろう。

今、特に企業の中の40代以上の人々は大きな環境や状況の変化に戸惑い、困難を感じている人も多いが、そんな中で30代前半以下のデジタルネイティブと呼ばれる世代は新しい時代を軽々と乗りこなしていく可能性を持っている。

しかし自分も含めたデジタルネイティブよりも上の世代に希望がないわけではない。あらゆる可能性を信じ、まずは多様な進化の方向性を解放していくことがこの時代を生きる者としての役目なのかもしれない。

この、世界の変化のときに居合わせた自分自身の使命は何なのか。

広く世界を見渡しながら、目の前の中庭を見つめ、今日出会う人と向き合い続ける。

2020.7.15 Wed 20:26 Den Haag