750. 木々に触れ、歩く朝

身体の中に澄んだ空気がいっぱいになっていることを感じる。血液もサラサラと流れる。鳥の声が聞こえる。

今日は、昨晩から決めていたように、白湯を飲んだ後に散歩に出た。

地球とつながっている木を触って「アース」をしようと思ったのだ。「お気に入りの木」のようなものを決めようかと思っていたが、運河沿いに生えている木は思いの外どれも大きく、たくさんあったので、一本一本、触れて「おはよう」と声をかけながら歩くことにした。舗装された道の脇に、土の道がありそちらを歩く。小さな花がそこかしこに咲いている。

「健康のためにと散歩することにはなかなかモチベーションが上がらないけれど、花を見つけるためだと思ったら楽しみになるなあ。今度から休みの日は街ではなく近くの森に散歩に行こうかな」なんてことを考える。

少し先を歩いていた犬が何度も振り返る。飼い主の青年に呼ばれても、こちらを向いて尻尾を降る。

実家にも犬がいる。犬には犬好きが分かるのだろう。

近づくとやはりこちらを見て、大きく尻尾を降る。「あなたに興味を持っているみたい」と青年が言う。普段なら気軽に手を伸ばすところだが、そうすることを飼い主はよく思わないかもしれないということが頭をよぎる。少し言葉を交わしてその場を後にしたが、「触っていいか聞けばよかったなあ」と後悔が湧き上がってくる。

まだリードでつながれていたから、きっと若い犬なのだろう。(オランダではリードでつながれずに犬が悠々と散歩していることが多い。)

「同じくらいの時間に散歩に出れば、またあの犬に会えるだろうか」と考えながら歩みを進める。

運河にかかる橋を渡り、元来た方角に戻る。

この道からは、運河の中に建てられたボートハウスが並ぶ様子が見える。オランダらしくて、好きな景色の一つだ。休みの日に、ボートを漕いだり、ボートハウスのテラスでのんびりと読書をしたいなあという願望が浮かんでくる。言葉だけ聞くと何だかとても贅沢なようにも聞こえるけれど、そこにあるのは物質的な贅沢とは違う、心の充足を表す贅沢だ。心の充足には、ある程度物質的に充足されていることも必要だけど、それは本当にある程度、最低限で十分だろう。たくさんのものを持つよりも、たくさん働くよりも、もっと大切なことがあるのだということを、オランダの人々の暮らしは教えてくれる。

散歩の始めに、我が家の並びの家の壁に「1897」という文字を見つけたことを思い出す。おそらく我が家も同じくらいに作られたのだろう。築100年をゆうに超えているということだ。

そうは思えないほど、どの家の外壁も手入れをされてシャンとしている。家の中もそうだ。先日、階段部分のペンキが塗り直されたが、そんな風にこの家は毎年のようにペンキを塗り替えられてきたのだろう。

引き継がれていく家。そしてその家に対するオーナーシップ。

それは単に「そうすれば家の資産価値が落ちない」ということに基づいた、オランダ人らしい目的合理主義からきている態度かもしれないが、それが人生に対するオーナーシップを育て、人生を豊かなものにしているのだろう。

この国の人々の暮らしから学ぶことはまだまだありそうだ。2020.7.13 Mon 8:09 Den Haag

751. 対話を聞いて、対話をした気になっていないか

 

遥か上空を舞うカモメの姿が霞んで見える。それは、天気によるものか、それとも私の目の状態によるものか。

今、何とも言えない脳の疲労に襲われている。車酔いをしているような感覚だ。1ヶ月ほど前にも同様の感覚を感じたことがある。

今日はオンラインで開催されているコーチングサミットに参加をした。2週間に渡って様々なスピーカーの対話やワークショップが開催されるが、今日がそのオープニングの日ということで、先ほどまでU理論の著者のオットー・シャーマとティール組織の著者のフレデリック・ラルーの対談が開催されていた。

ほぼ同時に英語の書き起こしをしてくれるツールがあり、それで記録を取りながら英語のリスニングのつもりで聞いていたのだが、対話を英語で聞くというのはかなり難易度が高いということを実感している。

例えば、スピーカーが一人で話をする場合、出版されている書籍やすでに公開されている論理・哲学等に則って話が進められる場合が多い。(そういう場は、書籍やトレーニング・サービス等のプロモーションを兼ねている場合も多い。)そのため、事前に書籍を読むなどしておけば話の流れの大筋は分かり、それに現在の状況に対する最新の考察などが加わることになる。それももともとの理論等に立脚したものが主なため、すでにあるレンズを当てはめる確認のような形で事足りる。

しかし、対話というのはそうもいかない。

まずスピーカーが複数人になり、それぞれの考え方の背景があり、さらにそこに話の文脈というのが加わる。

「今話されている話が何につながっているのか」というのを聞き手が自分の中でつなげる必要がある。

母国語以外の言葉でなされている対話というのは、言語の変換と、文脈を捉えることと、そしてその上で話されていることを捉えること、という複数のタスクが一気に発生することになる。

書いてみて分かったが、とても今の自分にできることではない。

日本語でさえ難しいのだ。

様々なイベントがオンラインに移行され、そのおかげで様々な人たちの対話や対談というのを聞くことができるようになったが、これは、気をつけないと、情報の発し手と聞き手、考える人と考えない人という構図が顕著になってしまう可能性があるように思う。

先日も、オランダに住む友人の登壇したオンラインでの対談を視聴していたが、たまたま知人が同じイベントに参加をしており、その後、感想や自分の考えを話し合うことができたのだが、これが、人の対話を聞いて自分が考えた気になっていたら、ぼーっとテレビを見ていたのとさほど変わらなくなってしまうだろう。

人は頭の中にあることも、何かの形でアウトプットしなければ自分でも何を考えているのか分からないのだ。そしてアウトプットしないことが続くと、例えば仮に自分自身の価値観に沿ったことをしていたとしてもそれが分からなくなってしまう。

しかも、複数人数の中では無意識に必要以上に他者に共感したり同調するということが(特に日本人には)起こりやすい。

一対一の対話を持つことのできる力というのは改めて今後のオンライン社会でも大切になってくるだろう。

というのはそもそものこの今の疲労とは違う観点の課題感の話なのだが、今はとにかく頭の疲労がひどい。

慣れというのもあるのだろうけれど、できるだけ一対一の静かな世界に身を置きたいと、弱気になってくるくらいだ。今は何かを判断する思考の状態ではないということだけが分かる。

それにしても、繰り返しになるがこの疲労は何だろう。

英語を日本語に変換し続けること、複数の人のそれぞれの背景にある物語を想像すること、文脈を読むこと、それだけではないように思う。視覚情報(これは自分自身にとって過度な刺激となることが顕著だということが分かっている)に加えて、音声情報の中にも、複数人数の会議に置いては何かデジタルの信号のようなものがのっているのではないかという気さえしてくる。

数ヶ月前に知った自分のエンパスという体質も関係しているだろう。オンラインでの複数名の会議がデフォルトになったら、おそらくエンパスやHSPの人たちはかなりつらいはずだ。

慣れでどうにかなるものと、体質としてどうしても合わないもの。

これらを見分けて、それぞれの人が快適に毎日を過ごせる環境や関係性づくりと後押ししたい。これが、今、ガンガンとする頭で考えることができる精一杯のことだ。2020.7.13 Mon 21:22