748. 満たされることと育てること

その東側半分を太陽の光に照らされながら、雲の塊がゆっくりと西の方角へと動いていく。

昨日よりさらに静かな朝。

一週間ぶりに「仕事」と呼ばれる予定がない私の心も、いつもよりも静かだ。そうは書いてみたけれどどこからどこまでが「仕事」なのか、もはや分からない。明確な報酬が発生している時間にやっていることだけが仕事なのか。そうではない。時間を切り売りしているわけではないだろう。多くの仕事がそうであるように、コーチというのも決して1時間のセッションを売っているわけではない。これまでの長い時間の積み重ねと、今日1日の過ごし方の上に「対話者」としての自分がいる。ワークライフバランスなどというバランスはなく、生きることそのものがそこにある。

先ほどは白湯を飲みながら、「満たされる」と「育てる」という言葉が浮かんできた。自分自身が満たされているからこそ、人に与えることができる。満たされているからこそ、人を後押しすることができる。

もちろんそのプロセスにおいてさらに満たされるので、そこにはもはや「与える」「与えられる」という関係さえ存在しなくなるけれど、そういう関係になることができる土台はやはり自分が満たされていることなのだ。

自分が満たされると同時に、他者が満たされるのであればなお良い。報酬を得るというのは、お金の流れとサービスや商品の流れという相互関係がそこにはあるのであって、両者が満たされているとも言えるだろう。そんな関係をしっかりと作っていくことができたら、さらに与えることもできるようになる。

自己という存在を大きく広げた上で利己的になる。それは同時に利他でもある。

こうして書きながら今まで考えていた「自己」がいかに意味の狭いものであったかを思い知らされている。

「人は常に(狭い範囲で)合理的である」

最近読んだ本にそんな言葉が書いてあった。合理的であることはある意味自然なことなのだ。その合理性の範囲をいかに広げることができるか。例えば「自己」という言葉の中に「他者との関係性」も含めることができたなら、それだけで「利己的」の意味も変わってくるだろう。

そしてもう一つ、「育てる」ということ。

これは、人を育てるのではなく、つながりを育てるということだ。

なぜそんな言葉が湧いてきたのか。

それは新しく参画している事業の、さほど遠くない、むしろ直近で直面するであろう課題を考えていたことに起因する。新しいチームは、まだ小さいがそれぞれの領域のスペシャリストが集まっている。それぞれに違う経験があり、強みがある。同時に経験が少ない領域や不得手な領域もそれぞれにあるが、そんなことは問題ではない。それを補い合えるのがチームなのだ。

まず、小さな始まりとしてはとてもいい状態だと思う。しかしこのチームには脆弱性がある。今は中心が存在するのだ。全ての立体は点から始まり、点と点がつながり線に、さらに面に、そして立体になっていくのだから、小さい段階で中心のような点が存在するのも自然なことだ。

しかし、今の時点ではこの点が無くなってしまった場合、全体の形を保つことが難しくなる。例えばこの中心の点を担っている人が体調を崩した場合、誰もその役割を代替することができない。それは、組織の形態としても、経済性から見てもとても脆い状態だ。

また、その人以外の人の誰が欠けても、やはりその代わりを担うことができる人がいない。そう思うのはまだ自分自身が、人を役割で捉えている面があって、人と役割の中に知識や経験が蓄積されているという認識を持っているから考えることなのだと、こう書いていて気づく。

実際には知識も経験もつながりの中に蓄積されていくのであって、個人によって所有されるものではないのだろう。むしろ、そういう組織にすることができれば、組織としての脆弱性は減るに違いない。さらに、もっと様々な人とのつながりや関わりを持ち込むことができれば、組織の中心はなくなり、どこかが欠けても全体が保たれるようなことが起こっていくだろう。

そんな風に書くと、やはり人を役割や部分として見ている意識が強いようにも感じられるが、決してそういう組織をつくりたいわけではない。

そこにいるひとりひとりが持っている力を発揮し、さらに新しいものを共に生み出し続けることができていて、そこにいるひとりひとりの顔が輝いているような、そんな組織というかネットワークのようなものができたとき、社会に対する貢献や還元の度合いも大きなものとなるだろう。

コーチングも、研究も、その他のまだ名前がついていないけれど今後世の中に必要になってくるであろうことも、もっともっと仲間が必要だ。それぞれの想いや向かう先は違ったとしても、何か共通する人間哲学を持ったような仲間。

そのためにはもっと自分が対話をしていく必要があるだろう。共に深めていく必要があるだろう。

対話の土台は一対一であり、対話的なパートナーシップを元にしたチームやネットワークづくりを探究してみたいという気持ちが今姿を現している。

こうして、日曜日も、私にとっては人生における大切なテーマに向き合い続ける時間になる。2020.7.12 Sun 10:40 Den Haag

749. コーチングビジネスに批判を向けていた考えに批判を向けてみる


どうにも夕食を摂りすぎたようで、寝室のソファで30分ほど仮眠をしていた。これは今日、街の中心部まで片道徒歩30分強ほどの道を行き来したということもあるだろう。思ったよりも健全な眠気なのかもしれないが、身体が必要としているのだから、それに「健全な」も「不健全な」もないという気がしてくる。こういう小さな意味づけが積み重なって「私は不健全なことばかりしてしまってダメな人間だ」という自分に対する意味づけを行なってしまったりもする。人を悩ませていることの大半は、その行為そのものではなく、行為に対する意味付けなのだということが強く浮かんでくる。

身体が必要としたことにしろ、仮に夕食を摂りすぎて眠気がきているのだとすると、夕食の摂り方を検討しても良いのかもしれない。日中に摂取する飲み物や果物と同じように、身体に必要な栄養は摂取しつつ、消化に負担をかけないということももっとできるはずだ。

そうすると食後の眠気は少なくなり、逆に就寝時の睡眠はもっと深くなるかもしれない。

仮眠をしながら、頭の中には「どうやるかより、どういう状態でそれをやるかが大事」ということが浮かんでいた。何となく思考がままならない状態で日記を書くよりも、「書いている自分」を客観的に捉えられる状態で日記を書くのがいいだろう。そんなことをうっすらと考えていたのだと思う。

そんなことを口実に仮眠をとったのだが、果たしてその前と今の思考や感覚にどのくらい差があるかというと分からない。ひとまず、バランスボールの上に座って文字をしたためようというエネルギーがかろうじて湧いている状態かもしれない。

そんな、半ば思考がままならない状態ではあるが、今浮かんできたのは「現実は意識の向かう方向に現れてくる」ということだ。

この数ヶ月、自分自身の意識を向けたことが少しだけ後を追うように実現していくことを実感している。それはこれまでの時間の積み重ねではあるけれど、意識を向け、一定のことを続けると、それは形になっていくのだ。そして形になるまでの時間は、思っていたよりも早い。思っていたよりも早いけれど、これまでの自分を振り返ると、その早い期間さえも何かに意識を向け続けることができなかったのかもしれないと振り返る。

どんなことも現実になっていくのだと実感した今、改めてここから何に意識を向けていくかというのは問い直したいところだ。

世界にどのように関わり、どんな影響を与えるか。

何人の人を幸せにするか。

それは意識の向け具合で大きく変わるだろう。

何人の人を幸せにするかというと何だかとても大それたことのように聞こえるが、でもやっぱりそうなのだ。

そういう目で見てみると、これまで理解していたものがまた違ったものに見えてくる。例えば私はこれまで「コーチングを教える」ということについて非常に否定的な見方をしてきた。

そもそもコーチングは知識を知ってできるようになるものではない。自動車の運転が、座学だけでできるようになるわけではないのと同じだ。だが、実際の体験をつくるというのは効率が悪い。だから「コーチングを教える」というのは、コーチングをビジネスとして考えたときに多数の人に一気に提供をするための詭弁のようなものであって、極端に言えばコーチングを教えている人の多くはコーチングができないのに教えているのだと思ってきた。(ここで言う「教える」は、座学的な教えるであり、コーチングの実践は含まれない。)

しかし、「コーチングによって起こることを世界に提供したい」と考えたとき、自分がコーチとして一対一でコーチングを提供することに限界があるということに気づく。自分がコーチをするのでなくても、身近な人と対話をすることができたらそれがいいのではないかという気がしてくる。そうすると、コーチングを教えている人の中にはそんな想いでコーチングを教えている人もいるのだということが分かる。(実際には、前者の、ビジネスとしての広がりを考え、もしくは実際にはコーチングを教えることしかできなくて教えている人と、そうではなく、自分がコーチングを提供することの限界を超えるために教えている人が混ざっているだろう。)

そして現在のコーチングビジネス(主にコーチングを教えるコーチングスクール)を複雑なものにしているのは、コーチングの変遷だろう。コーチングは、目標達成志向の第一世代、組織をシステミックに変革していく第二世代、そして今、より、対話的・協働的に内省を後押しする第三世代まで変化をしてきている。

これらに優劣はないが、現在、組織や日常の中でより必要とされているのは第三世代のコーチングだ。しかし、コーチングスクールの多くが、第一世代もしくは第二世代のコーチングを教えることにとどまっている。

これは私の私見だが、おそらく第三世代のコーチングに必要なのはコーチングスキルではない。あればなお良いという感じではあるが、対話に必要なのは、一旦、自分の考えているものの見方を脇に置いて、相手が見ている世界を見ようとすることだ。その考えなしにいくらスキルを身につけても、対話をしていくことは難しいだろう。

私自身、「コーチング」という言葉に対して、第一世代もしくは第二世代のコーチングのイメージが強いし、世間においてもそうなのだと思う。もはや、コーチングとは呼ばず、対話、もしくはダイアローグと呼んだ方がいいのかもしれない。

スキルを学ぶのではなく、まずは自分自身について知り、そして対話を実践していく。そんな取り組みを提供することができたら、自分が一対一のコーチングを提供することの限界を超えることができるだろうか。

そう言えば、以前、やはり組織を辞めたコーチの大先輩が、その後、対話の力を身につける取り組みを提供していたが、その本当の意味と価値を今になってようやく理解することができた。(という気になっているが、まだまだ私には理解できていない部分もあるのだろう。)

考えることというのは常にある狭い範囲に置いて合理的で正しいものの、その外側にはもっと大きな見方が広がっている。そう考えると自分が何かを分かったように声高に唱えることが恥ずかしい気もしてくるが、そんなことを気にしているといつまで経っても自分の中で思考や言葉が育たないだろう。世界はこれまで、未熟で偏りを持った私をあたたかく見守ってくれてきた。これからもそうだろう。だから、まだどんなに未熟かもしれないと感じるとしても考え、言葉にすることを続けるとともに、同じように、どうにか自分の言葉を紡ごうとする人を見守り続けたい。

たくさんの思考をするエネルギーがないと思っていたが思った以上に言葉が連なっていた。何か、内的なもの、外的なもの、大きなものに突き動かされたような気がしている。2020.7.12 Sun 20:53 Den Haag