747. 見る、見られるが入れ替わるとき

 

沸かした湯を小さな湯飲みに注ぎ、冷ましている間にバルコニーに出た。

いつもよりも深く静けさがそこにあるのは、この街の人たちの活動が少ないからだろうか。

ひとしきり中庭を眺め、部屋に戻ろうとすると、小柄な黒猫が中庭の中央にあるガーデンハウスの屋根から庭を見下ろしている様子に気づく。視線の先、茂みの中には鳩がいるようだ。

黒猫は一歩前足を踏み出し、そこでピタッと止まる。鳩と猫と私で、「だるまさんが転んだ」をしているような気分になる。

どのくらい時間が経っただろう。おそらくは30秒もない時間だったと思う。

姿勢を変えずに鳩を見守っていた黒猫が、さらに一歩踏み出した、猫の体が地面につくかつかないかのところで、鳩が飛び立つ。

そして今度は、鳩が隣の家の一階部分の屋根に止まり、庭に残った猫を見下ろすことになった。

見るものと見られるもの。

その立場が一瞬にして入れ替わる様子に感じた心の揺れは、今思えば驚きだったのだと思う。

一つは、こんな風に主体と客体が入れ替わるのだという驚き。

そしてもう一つは、目の前のことに絶えず意味付けを行っている自分に対する驚き。

見下ろす方が広い視点を持つことができていて、立場上有利である。
そんな意味付けが一瞬にしてなされていた。

確かにそういう面もあるだろう。

リーダーたるもの、無人島に流れ着いたらまず高い場所に登って島を見渡せというような言葉もある。

しかし本当に、見下ろす側、見渡す側が有利なのだろうか。

ここで言う「有利」とは、「自分の望む未来に向けてより適切な行動を取ることができる」というようなニュアンスだ。

そういう意味においては、広い範囲を、長い時間軸を見渡すことができた方が都合が良い。

一方、別の視点で見てみるとどうだろう。

この場を、本当の意味でリードしているのは誰か。

見下ろす側がどんな未来を描いても、どんな指示を出しても、実際に地面の上で動く側がその通りに動かなければ、その未来が実現されることはない。


見る側と見られる側において、見られる側は(見る側の存在に気づいていなければ特に)自由である。見る側は、自分が影響を受ける対象が一つ多く存在しているということになる。

頭で考えるとそういうことになるけれど、実際、人間を含めた自然界はもっと有機的に、曖昧な境界をもって関わり合っているだろう。

本来そこには、見る側・見られる側の分離はないはずだ。

種類の違う微生物のようなものも、相互に情報を交換しているという。

私たちは常に、つながりの中に生きているのだ。

そう思うと「わたし」という存在が為すものについて、ますますこだわりが薄れていく。たまたまそれがここに立ち現れただけで、世界の中に起こるべくして起こったことなのだ。

それでもそこに「わたし」という存在を見出したいと思うのは、「わたし」の痕跡を残したいと思うのは(その欲求はだいぶ薄くなってきたのだが)、それはそれで人間が根源的に持っている欲求の一つということだろうか。それもまたこの先変わっていくのだろうか。

庭の真ん中に立つ洋梨の木の向こうに座っている黒猫の背中が見える。

中庭に広がる景色は、自分自身の心の内とつながっているものだということを今日も実感している。2020.7.11 Sat 9:37