744. 船出

 

楽しみな気持ちとともに目が覚めた。いつもそうなのだが、今日はさらにその感覚が大きい。新しく参画しているプロジェクトがさらに一歩進む日。大袈裟だが、日本の企業の今後の行方に多少なりとも影響を与えるかもしれないと、そんな気がしている。


いや、そうでないとやる意味はないだろう。即物的な変化ではない。もっとゆっくりと大きな。それは例えば、大海原で航海している船が、だけ舵を切るような。その微かに見える変化が、やがて到達点の大きな違いにつながるのだ。

急に舵を切って全速力で突き進んだなら、その先に現れる新たな環境に適応できずに乗組員が壊滅してしまうということが起こるだろう。

いかにゆっくりと舵を切れるか。いかにゆっくりと航海を進めるか。いかに深く、海の中にオールを差し込むことができるか。

そこに向けて、自分が常日頃からどんな在り方でそこにいるのかということが問われている。

とは言っても、何かを無理に頑張る必要はない。

この中庭の木々のように、風に揺られながら静かに佇むのだ。

新しいプロジェクトとは別に、これまで携わってきた企業に対して新たな提案をすることが思い浮かんでいる。

今、日本の人たちの働き方やコミュニケーション環境を外から見ているからこそ、分かることがある。

自分の視点から見えることを伝えることも私に与えられた役割なのだろう。

この静かな環境に身を置けるのは、協働し、必要としてくれる人たちがいるからこそである。大いなる流れの一部として、環境から受け取るものを還元し続けていきたい。

そして、どんな荒波の中にいるときも、この庭を眺め、自然の循環から学び続けたい。2020.7.9 Thu 7:10 Den Haag

 

745. 伝えることよりも大切なこと

書斎の窓の外に目をやって、今日、朝そうしていらい一度も外を見ていなかったことに気づいて愕然とした。

確かに今日も天気は悪くて、一度纏ったノースリーブのワンピースをすぐに長袖のシャツに着替えたくらい気温も低かった。

新しいプロジェクトに関連したミーティングに入り、そのあとさらに振り返りのミーティングをした。今朝起きたときから(実際には昨日眠りにつくときから)作りたかった資料もあった。

それもしても、である。

私はちゃんと息をしていただろうか、と心配になる。

昨日、ピラティスを教えている友人にオンラインで個人レッスンをしてもらったこともあり、今日は椅子に座っている間も(日中のほとんどが椅子に座っている時間なのだが)何度か、両足の親指の内側に体重をかけることを意識した。

つくった資料にも、本当に大切にしたいことを言葉にして込めることができたと思う。これまで作成したことがないテイストを試してみたが、それでもさほど時間がかからなかったのは、普段美しいなと目に留まるものの構造やバランスを観察する癖がついているからだろうか。

最近気付いたのだが、日本の大企業の資料というのは驚くほど変わっていなくて、一枚の中にガッチガチに情報が詰まっている。そこに、情報が多い方が価値があるように見えるということ、そして、詳細に書けば伝わるだろうという意識があることを想像する。

言葉は伝わる。
文字は伝わる。

それは、そうだとも言えるし、そうでないとも言える。

20%くらいは伝わるし、80%くらいは伝わらないんじゃないかというのが正直なところだ。

ほぼ伝わらないと思ったほうがいいだろう。

そもそもまず、伝えることが本当に大切なのだろうか。


自分が考えていることを誰かに伝える。

それができたら、完了と言えるのだろうか。

もしそうなら、それで完了する仕事はAIに取って変わられるだろう。

伝達された情報をそのまま受け取りそのまま実行するのであれば、間違いも疲労もない機械の方がずっといい。

大切なのは、伝えることではないのだ。

伝えたことで、今度は相手から何かが出てくる。

そのことによって自分からまた何かが出てくる。

そうして新しい考えやアイディアがつくられていく。

そして、そうやってつくられたものは共同創作物となり、お互いにとって愛着の深いものとなる。

そのプロセスが大切なのだ。

コミュニケーションを、「何かを伝達すること」とだけ捉えていたら、他者との関係性も、自分自身の生み出すものも変わってはいかないだろう。

こういうことをもっと小さい頃から学ぶことができたらとも思うが、それは意識の成長のプロセス上、難しいのだろうか。

相手の考えをただ受け取るだけでなく、そこから持論形成をすることは確かに難易度は高そうだ。大人になってもそれができないままで長い時間を過ごしていることもあるだろう。

しかし、それは、その能力が開発・発揮される環境や関係性・文脈に身を置いていなかったというだけで、もう少し早くに発揮することもできるのではないだろうか。

それが過剰な負荷とならないかには注意が必要だが、若くても対話をする能力が高い人もいることを見ると、無理なことでもないように思えてくる。(それが慣習的に周囲に倣っているだけだという可能性もあるが、それだけでは発揮できない、「持論」がそこにしっかりと形成されているようにも思う。)

これまで、人の意識の成長については学びを深めてきたが、そこに対して対話とのつながりをもっと深く、明確に見つけていきたい。コミュニケーションや対話を、表面上のスキルではなく、もっと構造的に、メカニズムとして整理しつつ、それでは整理できないことにも取り組み続けていきたい。

最近、一見、説明がつかないと思われるようなことも、何らか科学的な説明ができるのではないかという気がしてきているが、そう思うということはまだ、私がその現象の一部の面しか捉えきれていないということだろう。

自分自身が理解や処理をしきれないことに対していかに開き続けるか。これから研究・探究を深めていく上で重要なことだろう。2020.7.9 Thu 19:27 Den Haag