742. 自分を消す
バタバタと雨の音が聞こえる。パタパタ、と表現した方がいいだろうか。
そう強くはない、落ち着きと柔らかさのある音。
昨晩のことを思い出そうとするも思い出せない。
日記を書いた後、結局何か本を読んだのだったっけ…。
そうだ、日本時間の夜中に目が覚めたパートナーとメッセージのやりとりをしていたのだ。その中で「自分を消す」という言葉が出てきた。
世界にもっと提供したいものがある。しかし身体と時間が限られた中でどうしたらいいだろう。そんな話だったと思う。
私は圧倒的に一対一での対話が得意であり好きでもあり、そこで起こることはおそらくクライアントに対してもパワフルな後押しになっているであろう(そう願いたい)と思っているのだが、同じ形で関われる相手というのはこれ以上大きく増やすことは難しい。ひとりひとりとしっかりと関わりたいという想いはあるが、仮にそれに忙殺されることになってしまうとおそらく一つ一つの時間の質が下がるとともに、そもそも自分の望むものでもなくなってしまう。
しかし、よくよく考えてみると、クライアントにとっては、必ずしも私と関わる必要はないのだ。自分自身の力を発揮することができて、喜びに満ちた毎日や人生を過ごすことができたのならそれはその人にとって幸せだろうし、私もそんな人が増えることは大きな幸せである。
そして対話はその後押しとなると考えているのだが、必ずしも対話の相手は私ではなくて良い。
対話の土台は、自分自身との対話であり、その次が、身近な人、仕事やプライベートのパートナーとの対話だと最近つくづく感じている。スティーブ・ジョブズも一人だったわけではない。対話の相手がいたのだ。創造性と人間関係は深く関係している。
私の目指す世界は、世界中の人と自分が対話をしている世界ではなく、それぞれの人が、それぞれに、対話のパートナーを持っている世界。それをいつまでも自分がやろうとすることで限界が生まれる。
身近な人間関係は難しい。家族であれ、仕事仲間であれ、そこには多少なりともお互いの利害関係や利益の相反関係のようなものが発生する。しかし、確かに一見そうなのだが、意識と対話のステージが変われば、きっとそうではなくなるのだ。それを後押しする。
自分自身との対話、パートナーとの対話。
それができれば、その先の多くの人とも対話をしていけるようになるだろう。
そこに私はいなくていいのだ。
自分を消す。
それは自分の軸がなくなることでも、自分の存在価値がなくなることでもない。
そもそも存在価値とは他者からの評価や他者への影響の大きさで決まるわけではない。
存在している。それだけで十分なのだ。
だからあとは、自分が直接関わらなくても人が対話の力を発揮していく環境をどうやってつくっていくか。
自分という存在をそこに置くことを手放したとき、世界との関係性の質はまた変化し、人生の可能性もまた広がったように感じている。2020.7.8 Wed 8:47 Den Haag
743. 考えるということ、そこにいるということ
朝から降り続けている雨が、今も庭の木々や土を濡らしている。1時間のインターバルを設けながら入れていた3つの予定。そしてその後、言葉を綴ることをしているうちにあっという間に1日が終わろうとしている。
残り少ない時間とエネルギーの中、今何を言葉にしておこうかと考えている。
そんな中、友人が日記の中で触れていた、発達についての人々の認識に関する警鐘にも嘆きにも思えるような一文が、心に留まっている。
基本的には人も社会も、今の自分自身の思う正しさを立証する方向に情報やものごとを活用する。日本では特に、その本質が伝えられないままあっという間に商品化され消費されてしまうということが、思想や理論に限らずあらゆることで起こっているように感じるがそれは世界という視点で捉えてもさほど変わらないのだろう。
その内容がどんな価値を持つものだとしても、消費的・商品的な意識の元で扱われれば、人々の意識や社会の構造に変化が起こることはない。
発達に関しては「先を急ぐものではない」と言ったところで、今度はそれが商品化・コンテンツ化してしまうことが目に見えている。
オランダに来たときに、医療保険を選ぶという行為を自ら行って、いかに自分が選択のリテラシーがないかということを思い知ったのだが、個々人の選択のリテラシーが上がれば、多少社会が変わるかというとそれも甚だ疑問である。先日、ある脳科学者が「思考とは偏見をつくっていくことである」という趣旨のことを書いていたのを目にしたが、きっとそうなのだろう。
どんなに他の可能性を検討したとしても、最終的にどこかに結論が帰着するとすると、そこに何らかの意識の固着のようなものが生まれる。絶えず思考し続けるということをしない限り、人はある特定の角度から物事を見るということになるのだろう。
今日もう一つ書き留めておきたいのは、自分を消すということについてだ。
これについては今朝の日記でも触れたように思う。
自分を消すということにアンテナが立ったためか、いかに自分を消すことができないかということを呆れるほどに感じている。
どんなにものごとに焦点をあてているつもりでも、そこに微かに「それを思考している自分」を残さずにはいられないのだ。これは自己愛のようなものなのだろうか。まだどこかで、手放せないものがあるのだろうか。
そんな自分がいるということは愛を持って抱擁しつつ、そこを、「もういいだろう」と手放していきたい。(わざわざそう思うということは、まだ手放すことのできない自分がいるということなのだが。)
我思うゆえに我あり。
それでもう十分なのだ。
そこに痕跡を残す必要はない。
これからは、自分自身がコーチをするということを手放し、人と人とが対話をする環境をつくっていくことに力を注ぎたい。「私が出ていかないと」などと思っていたらキリがないのだ。
今すでにある関係性に真摯に向き合うことを続けながら、残りの力と時間は、より多くの人が対話の場、対話する関係性を持てる環境をつくることに注ぎたい。これからも時折起こってくるであろう、自分自身をそこに存在させたいという欲求に飲まれることなくあゆんでいくために、暫くの間、何度もここにこのことを記していくことになるだろう。2020.7.8 Wed 21:44 Den Haag