741. 日々一人で摂る食事と対話のこと

夕食に食べたのはチーズをのせたパンと蜂蜜を塗ったパン、一枚の大きさは手のひらくらいだが、食べた総量以上に胃にもたれを感じる。やはり、普段とは違うチーズの刺激が私には大きいのだろうか。日中は飲み物とフルーツ、夜に食事を摂るというリズムにはすっかり慣れたが、夜の食事は何が良いかというのはまだ定まっていない。

正直なところ、自分の中でずっと拭えないのは「食事がさほど楽しくない」という感覚があるということだ。

何せ一人である。ずっと一人である。

こうして日記を書くとともに、頭の中にあることはどんどんと言語化・構造化していっているので、さほど「人と話したい」という欲求があるわけでもないのだが、一人で摂る食事というのは、どうしても栄養摂取のための作業になってしまう。感謝とともに、目の前のものに集中して。という気持ちは持つのだが、心から湧き出てくるような喜びがあるかというとそうではないのだ。

修行が足りないのだろうか。

昨年は何だかんだ毎月1人もしくは1組みは日本から友人や知人がオランダに立ち寄ってくれていたので、食事をしながらもしくはお茶を飲みながらあれやこれやと話をする機会があったのだが、振り返ってみれば今年は3月以降、日本語で話をしながら食事をする機会がまだ一度もない。

毎日ミーティングやセッションで対話をしていて、私の場合それは、プライベートな状態とそう変わりはしないのだが、それでもやはり意識の向けどころや状態に違いはあるので、そう考えると、ある特定の(親しい家族のような人たちと話をしているような)意識状態での対話が私の中には欠落しているのだろうか。

とは言え、ニュースはもとより、芸能情報などにもことさら関心がなく、結局人間もしくは人間哲学の話が好きなので、そんな話を食事をしながら気軽にできる相手というのもなかなかおらず、ましてやお酒を飲むことも、大人数でだらだらと話すことにもやはり関心が薄い(というかやはり圧倒的に一対一で話をするのが好き)なので、オンラインで複数の人が顔を出す会というのもよっぽどの理由がなければ(私の中でよっぽどの理由というのはほぼない)参加することもない。


これは、食事を一人で摂るからどうこうという話ではなく、もう少し日々の中で色々な景色を見たいということなのだろうか。そしてそれは、例えば外出の頻度を増やしたり、行く先のバリエーションが増えれば満たされるものだろうか。


日々、大切なもので満たされているという実感はあるし、一方で、もっとやりたいこと(主には読書と学びと実践)山積みではある。

思考の質が変わればこのあたりはもっと違った感覚になるのだろうか。

視点を変えて、少し今日のことを振り返ってみる。

今日実感したのは、人の意識の段階が変わっていくのにはやはり、年単位の時間がかかるということ。これは、大変なことのようにも思えるが、それだけ、無理に負荷をかけずに自然な状態で変容が起こっているとも言えるだろう。

そして一方で、意識の状態や、本来すでに発揮されていいはずの視点についてはふとしたことがきっかけで変化が起こるということ。

共通するのはそこに、自然な対話があるということだ。自然なというのは、そこで起こっていること、現れていることを起点に少しずつゆるみとゆれが起こるような状態である。身体の力が抜けているような状態とも言えるかもしれない。

今になって、つくづく、巷に出回っているもしくはビジネスコーチングの文脈で語られるコーチングスキルというのはロバート・キーガンの成人発達理論における第二段階(道具主義的段階)から第三段階(慣習的段階)もしくは第三段階から第四段階(自己主導段階)の入り口あたりまでの発達を後押しするスキルしか語られていないということを強く感じる。

組織においては、それ以上の段階に発達することは特段必要とされないのだろう。

意識と言葉は深く関係している。自分の言葉で語ることを手放している中では意識の変容というのはなかなか起こってはいかないのだ。

今日は随分と頭で考えていることを書いてきた。明日はオランダに住むピラティスを教えている友人に姿勢について個人指導をしてもらうことになっている。身体とのつながりももっと強く持ち、思考や感覚の質が変わったらどんな世界を見ることになるのか。早くそうなろうと急ぐ気持ちはないが、そうなることは楽しみである。2020.7.7 Tue 20:32 Den Haag