738. 実りのプロセス

 

バルコニーへと続く窓を開ける前から、今日も気温が低いということを察していた。それは雲の広がる空から感じたのか、それとも部屋の中の気温から感じていたのか、明確に認識はできないが、総合的・全体的な感覚を以ってそう判断したのだろう。

案の定、中庭に吹く風は冷たくて、ノースリーブのワンピースの上にカーディガンを羽織り、バルコニーに出た。

手入れをする家主が不在の庭には、日々新しい花が咲いている。茂る葉の下に下がった葡萄の実も以前の一回りもふた回りも大きくなった。オーナーのヤンさんが「梨の木だ」と教えてくれた大きな木にもゴルフボール大で、雫型をした実が下がっている。

「実りの秋」と言うけれど、こうしてそのずっと前から実りは始まっていたのだ。毎日毎日少しずつ。まずは根っこが伸びて、幹が伸びて、葉が伸びて、花が咲いて、そこからやっと実が付き始める。

スーパーで売られている「葡萄の実」しか目にしていない私たちは、「実」があっという間にできると思い込んではいないだろうか。

常に出来上がった商品をお金と交換する中で、完成したものをお金で買えると思い込んではいないだろうか。

その目を、人間に対しても向けてはいないだろうか。

赤ちゃんが、だんだんと言葉を覚え、立ち上がっていくことを愛を持って見守ることはできるのに、なぜ、大人には同じようなまなざしを向けることができないのだろうか。

自然の中に身を置けば、私たちも自然の一部であり、緩やかな変化や大いなる循環の一部だということを思い出せるのだろうか。

成長欲求を持つことも自然なことだと捉えながら、自分自身、そして他者の、ゆっくりとしたあゆみ、行きつ戻りつ、ときに繭の中に眠るような時間をあたたかく見守り続けたい。2020.7.6 Mon 8:12 Den Haag

 

739. 言葉と意識と輪廻

大きな鱗のような雲が、南の方角にゆっくりと動いていく。そう書いて、おそらくほぼ全ての形容詞というのは、発するものの主観によってその意味を与えられているのではないかということに気づく。

結局、言葉によって何を表現することができるのだろう。何を残すことができるのだろう。言葉が、それを発する人の主観的な文節しか示さないのだとすると、言葉によって残されたものと、発せられた瞬間の言葉には、天と地ほどの、いや、もはや同じ次元の中では相容れないほどの違いがあるのではないか。

言葉は本来、音楽と同じく時間を、さらには文化や文脈といった何層にも重なった意味を内包するようなものであり、私たちが思っているほど単純なものではないのだ。

中でも言葉が生まれる瞬間というのは、そこにしかない生き生きとした生命エネルギーのようなものが宿っているのだろう。

だからきっと私は、人との対話が好きなのだ。

書籍を通しても、時折そんな、生きる言葉に出会えることがある。しかし、特に昨今の書籍はわかりやすい編集や大衆向けの構成・言葉選びがなされていることもあってか(もしくは著者の表現の限界なのか)残念ながら、著者の生きた鼓動や息遣いのようなものを感じることができるものはそう多くはない。

かく言う私も、今、自分の表現の限界を感じつつある。

自分が存在の全体を持って経験していることは私の現在の認識では到底捉え切れず、表現をすることもままならない。言葉の語彙はもちろんのこと、たとえ平易な言葉遣いであってもそこに果てのない奥行きを含ませることができないのだ。

私の中では、平易な表現と奥深さで言うと、詩人の谷川俊太郎さんと今は亡き写真家の星野道夫さんの言葉が浮かんでくる。星野道夫さんはアラスカという厳しい自然環境の中で生きた日々が、そして谷川俊太郎さんはおそらく幼少期の身体的な境遇等が世界を捉えるレンズを深く、鋭いものになったのではないかと想像する。谷川俊太郎さんについては若い頃はどこか悲しみや寂しさ、孤独という言葉がよく似合うような表現が多かったが、年を重ねられた今、そこに深い慈愛のようなものが加わっていることを感じる。

それを「年の功」などと、片付けてはいけないだろう。

どれだけ歳をとるかではなく、どんな風に歳をとるか。どんな風に世界と向き合い続けるか。それが年老いたときの深みや抱擁の力に現れてくるのだろう。

言葉については以前から引き続き、さらに今深くなっている関心事項だが、最近、関心が出てきているのが歴史についてだ。

正直なところ、小学校のときに中学受験のための勉強をして以来、私にとって歴史とは暗記の対象でしかなく、それに対して何の意味や価値も見出すことができなかった。しかし、今、人類が進むべき方向性、特に私が専門とするコミュニケーションや対話について今後行方を考えていこうとすると、人類の辿ってきた歴史というのが切っても切り離せないものだと思えてくるのだ。

人間の意識が、人類の進化のプロセスと同様に変容していくという大きなメカニズムを持っているということが関心の要因となっているのだが、同時にかつて高度な文明が栄え、滅びたということについても意識が向かう。

物質的には現代社会ほど発展していなくても精神的に人々がもっと発達していた時代や場所があったはずなのではと思うのだ。そこでどのように組織運営がなされ、そしてなぜ滅びたのか。

何万年もの歴史の中で、人類が繰り返していること、越えられない壁のようなものがあるとするとそれは何なのか。

今のところそんな関心が湧き上がってきたばかりで、それに対して何の探究もできていないのだが、漠然と想像するほどに、自分たちはお釈迦様の手の上で踊っているのではないかという気がしてくる。

人類は、小さくも大きくも輪廻の中にいて、自分もやがて死んでいく。

そう思うと、今、自分が何か真理のようなものを見つけようとすることにどれだけの意味があるのかという気がしてくる。だからと言って、何もしないまま指を加えていられるかというとそうでもない。

不思議と今、自分の中には何か、魂を突き動かすようなものが生まれようとしている。そしてその魂は、決して私一人のものではなく、もっと大きな流れの中で、先を生きる人たち、後を生きる人たちとつながっているもののように思えるのだ。

まだ外は明るいが、1日の終わりが近づいている。
思考もだいぶ、鈍くなってきた。このあとはもう少しだけ、深い言葉と向き合うような時間を過ごしたい。2020.7.6 Mon 21:33 Den Haag