735. 再会

中庭に新しく黄色い花が咲いている。

すでにすっかり開いたその花から、この何十時間かの間、ゆっくりと庭を眺める時間がなかったのだということに気づく。

昨日は珍しく朝7時からの打ち合わせに参加をした。

通常であれば、シャワーを浴び、簡単なヨガの動きをして、白湯を飲み、中庭を眺め、日記を書き、掃除をし、発声をし、それから仕事を始めるもしくは打ち合わせやセッションに参加をするのだが、日記と掃除を抜かして1日を始めるというのは、私にとっては「支度を中途半端にした店にお客さんが来てしまった」というような気持ち悪さがある。

世界が今のようになる随分前から私はオンラインでしか人と話したり協働したりすることはなく、だからこそ、実際に人を招くのと同じように場と心をととのえるということを大切にしてきた。


心の中の静さは、どんなときにも存在するのだと知った今、どんな場でも静けさとともにあれることは実感しつつあるが、それでも「ととのえる」ための十分な時間は必要だ。

現在は週によって予定の埋まり具合に大きく差があるが、十分な余白を取ることを考えると、これ以上予定を入れることが難しくなってきている。しかし、内発的な気持ちから「取り組まねば」と半ば使命にも感じるようなことがやってきている。

時間に限りがある中で、どう内なるスペースを確保し続けるかというのが今後のテーマになってくるだろう。

それでも、世界にただ一人の、目の前の人と向き合うことを何よりも大切にし続けたい。

そんな中、昨日は思わぬ出会いがあった。再会、というのが適切だろう。

私にとって、再び出会うということは、再びの出会いであるとともに、全ての人がそうであるように11日生まれ変わる新しい命との出会いでもある。

オランダでもオンラインでも基本的に引きこもり生活をしているので、出会いも再会もそう多くはない。

会社員を辞める年に参加をした森のリトリートと呼ばれる23日の合宿で同じときを過ごした仲間は自分を入れてわずか4人。そこで出会うことさえ奇跡のようなものであり(そう考えると全ての出会いは奇跡であるのだが)、その後、日本を離れ、オンラインでの人とのつながりを全面的に絶った期間があることを考えると、再会に偶然と必然の入り混じった世界の計らいを感じずにはいられない。

「数年前に海に流した、手紙の入った小瓶が打ち上げられていた」そんな気分だ。

想いとともにあゆみを続け、葛藤とともに人と関わりを続けてきた。そんな遠い地にいた戦友との再会というような感覚もある。

私は基本的に、どんな人にも関心がある(実際にどんな人の人生も考え方も深く、いつまでも聞いていたいと思う)のだが、中でも心惹かれるのは、研究者肌の強い人なのだということを改めて感じる。

他の人には謎とも思えるような領域になぜだかものすごく心が惹かれ、つき動かされてきた。それは自分にはない面であり(他の人から見たらそうでもないのだろうか)、そして自分には絶対的に「理解し得ない」という感覚が、「もっと知りたい」という気持ちを強いものにする。

研究対象について知りたいとともに、それに惹かれるその人についてもっと知りたいと思うのだ。

それはさながら未知の生物に出会ったような感覚で、幸いにも意思疎通ができる言語を使っていることから、好奇心と対話がさらなる好奇心と対話をつくりだすのだろう。

「新しい景色を見続けたい」という、私の根源的な欲求の一つを刺激するのかもしれない。

とにかく私にとっては「分からない」ということが心地良く、そのわからない相手の思考回路を辿ることに大きな楽しみを感じるのだ。


この感覚を言葉にしながら、何とも不可思議な嗜好だという気もしてくる。

これはここ数年の取り組みや意識の変化で起こったことではなく、10代の終わり頃から気づけばそうだったので、根本的なタイプのようなものなのだろう。

自分自身も多少研究者気質なところがあるがその興味の対象が人間に向くという違いがあるだろうか。

マニアックな研究・探究の対象を持ってしまった人にとって、総じて日本社会(他の国については分からない)は、多少生きづらいところがあるのではないかと思う。

なにせ、研究はどんな成果がいつ出るかも分からないことも多い。そもそもそれが誰かの役に立つこともあればそうでないこともある。

目標達成主義傾向の強い社会においては、「研究をしていたい」という想いは、なかなかその居場所を見つけづらいのではないかと思う。

これから社会がどう変化していくのかは分からないが、私はこれからもこうして、自分自身のことや人間のことに思いを巡らせてゆくのだろう。

今日も世界に祝福を。2020.7.4 Sat 8:46 Den Haag