730. シミのついた白いシャツを何度も洗濯して考えた、人間のこと

 

薄暗い中で目覚め、少しの肌寒さを感じ、布団の中で丸まり、再び目を閉じた。その後にずっと夢を見ていたのだろうか。何人かの人と話をしたように思ったが、目覚めるとまた一人だった。

空に広がった雲が、ゆっくりと動いていく。カモメが舞う。

昨晩、キッチンのシンクで洗剤に浸しておいた白いシャツを確認すると、心なしかシミが薄くなっているような気がした。

最近頻繁に着ている白いシャツワンピースにいくつかのシミがついているのを見つけたのは、洗濯物を洗濯機から取り出し、干し、最後にワンピースをハンガーにかけようとしたときだった。左の肩より少し下の部分に、茶色いシミがいくつかある。醤油が跳ねたときについたかのような、直径1mmほどの点が3つ、4つほどついている。

しかし、心あたりはない。食事のときは、万が一食べこぼしたり何かが飛んでもいいようにと服を着替えている。

セッションやミーティングがある日は白いシャツを着るようにしているが、着るときにシミに気づかないということはないだろう。

洗濯機に入れる前、ネットに入れるときも、満遍なく見たわけではないが、そんなシミはなかったように思う。

となると、洗濯中にシミがついたのだろうか。そんなことがあるのだろうか。

そんなことを考えながら、シミ取り用のスプレーをかけ、しばらく置いて再び洗濯機に入れ、白い衣類専用のモードにしてスタートボタンを押す。

ドイツの洗濯機もそうだったが、我が家の洗濯機は日本の一般的な洗濯機に比べて洗濯にかかる時間が長い。モードによっては2時間以上の時間がかかる。ドラム式で、少ない量の水で洗おうとするとそうなるのだろうか。

2時間の選択が終わり、ワンピースを取り出すも、シミの様子は全くと言っていいほど変わらなかった。

調べてみると「サビシミ」というものがあるということが分かった。

その名の通り、鉄の錆の粉が飛んでできるシミで食べ物でできたシミよりも落ちにくいということで、再び、シミ取りスプレーをふんだんにかけ、ボウルのような容器にお湯を張り、その中につけた。

そして今朝、ようやく、シミが少し薄くなっていた。

重曹をすりこむだの、除光液をつけるだの、まだいくつか方法はありそうなので試してみたい。

白いシャツは真っ白なのが気持ちが良い。

着るものにさほどこだわりはなく、持っている衣類のバリエーションも多くはないものの、仕事着として着ているものは、気持ちの良い状態であってほしい。

さて、と改めて考える。

白いシャツに知らないうちに飛んでいたシミ。

恐らく、何かの拍子についたのだろう。

それはそれでそういうこともあるのだとして、私は、洗濯機の中で一体何がどうなっているのかちっとも知らないということに気づく。

確かに、衣類は洗濯されて綺麗になっているはずなのだが、そもそも衣類がそんなに汚れないので、洗濯の力がいかほどなのかは定かではない。

少なくとも実感があるのは、ドラムの中で叩きつけられるためか、バスタオルが恐ろしい硬さになっているということだ。

以前は柔軟剤を入れていたので多少やわらかさはあったが、洗濯機の柔軟剤を入れる部分の調子が悪くなってしまったため柔軟剤を入れるのをやめたら、タオルがガサガサ・バキバキになるようになってしまった。

「ふわふわー」みたいな状態でなくてもいいのだが、身体に直接触れるものは、もう少し柔らかさがあった方が心地良い。

汚れは落ちているかもしれない。

しかし、繊維は痛む。

それを柔軟剤でカバーする。

髪の毛のシャンプーも同様のことが起こる。

汚れは落ちるが、必要な油分も流されていく。

それを別のものでカバーする。

人間にもそんなことが起きていないだろうか。

何か、正しいこと、正しい姿を身に付けさせようとして、無理やり型にはめ込んだり、一律で同じことをする。その結果その人らしさのようなものは失われ、それを苦しく感じた人は自分を取り戻そうとする。

そうではなく、それぞれの人の個性や違いをそのまま伸ばす取り組みが今は多くあって欲しいと願っているが、「言葉にすれば伝わる」「一律で呼びかければ良い」などという導管コミュニケーションが未だに蔓延する日本社会の中で、なかなかそうもいかないということも感じている。

それでも、想いを持って何十年も取り組んできた先人たちがいるように、日々淡々と、できることに取り組んでいくというのが、今の私にできることなのだろう。2020.6.30 Tue 8:17 Den Haag

731. 現れた星座、はじまりのとき

 

想像していたよりもずっと、穏やかに、激しく、突然に、必然として、変化は、やってきた。

それは、変わりやすいオランダの天気のように、その瞬間だけを切り取れば何の脈略もなく、でももっと大きな流れの中で見ると当然なものとしてやってきた。

全ての点の散らばりと、全ての光の眩しさと、全ての闇の深さ。

それら全てをつなぐ大きな星座が今、姿を現そうとしている。

そしてその先にはさらに大きな星雲のようなものが待ち受けている。

後で振り返ったら「あのときが始まりだった」と言うことになるだろうか。

それとも「もっと前から始まっていた」と言うのだろうか。

そういう宿命だったのだと言うかもしれない。

ただ一つ言えるのは、今、日々出会うもの、日々時間を共にする人たちが本当にかけがえのない存在だと言うこと。

私はオランダの海辺の小さな街にいて、一人静かに暮らしている。

でも、そんな私が関わる人たちは、日々たくさんの人と出会い、言葉を交わしている。

何よりそれぞれの人が、一度きりの人生を生きている。

そんな人たちと関わるときに私ができることは何だろう。

教えることなど何もない。正すことなど何もない。

一人一人はすでに、必要なこと全てを備えている。

持っているものを発揮するだけなのだ。

様々な出来事や環境、人間関係、心や身体の状態の中で、今は上手く発揮できていないものもあるかもしれない。

目に見える形になるのに時間がかかることもあるかもしれない。

それでも、その人の中にすでにある種や光を見続ける、言葉になる前の、微かな音を聴き続けるのだ。

登ってきた険しい山だと思っていたものが、実はまだ、これから登る山の下にあった小さな山だったと気づいたとき、これから登る山の高さに途方に暮れながらも、そこに登れるのだと信じている自分がいる。

それぞれが、一人、孤独な旅路を歩いてきた仲間がいる。

この景色が見えることをDNAが知っているから、人は歩き続けるのだろう。

どんな立場や年齢の人であっても誰もが旅人であり、挑戦者だ。

それがどんなものであっても、見てきた景色に、感じていることに、向かう先に、祝福と祈りを。

自分自身を含めた、全ての人にそのまなざしを向け続けるのだということを今心に刻んでいる。2020.6.30 Tue 16:23 Den Haag