724. リーダーはどこにいるのか

 

昨晩降った雨がまだなお残る葡萄の葉を眺めながら、心の中に静けさが戻ってくることを感じた。

思考と心というのはどちらかしか働かせることのできないものだと思っていたが、どうやらそうではないということに気づく。

心とつながった思考、というのが存在するのだ。

そこにもはや心と思考、そして身体の分離はなく、全てがただ一体としてあるものとして存在している。そしてそこには、さらに、考える物(客体)と考える者(主体)の分別さえない。

嵐のような猛々しさの中にあって、凪のような穏やかさの中にある。

ああ、そういうことだったのだ。と、何人かの、心の領域のリーダーのことを思い出す。

彼らは、明確さと明晰さを以って曖昧さや混乱を抱擁している。

残念ながら、私が知る限りという狭い世界でだが、彼らの大半(本当に僅かな一部を除いて)は、日本人ではない。

これはもう、パーソナリティーを超えた、民族として染み込んでいるDNAのようなものなのだろうか。

少なくとも肉体的な死に直面したことがあるか、日本という国を出てアイデンティティの死を経験したことがあるか、とにかくよっぽどのことがない限り、相対化された自分自身の中からは見つけえない、弱々しくてちっぽけな自分に出会い、恐れとともに世を明かし、それでも生きている自分を実感するということはないのだろう。

一つの領域で自分自身の理論を打ち立てることはできても、現在の日本社会の中ではそれが手放しに礼賛され、社会的なイメージや立場がつくられ、気づけばその中で、屍のようにかつての自分の抜け殻の中で生きているということが起こっているように思う。

個人と、社会という見えない存在の、共依存のような関係。

自分の中のリーダーを見つけられない人々は、いつまでも自分の外にリーダーを求め、担ぎ上げ、そしてときに貶める。

自己の内面を世界に投影し続け、自分の人生の責任を取ることを放棄する。

今こんな風に日本を見ている私の中にあるのは、批判だけではない。

それでも知っているのだ。

一人一人がリーダーであることを。

一人一人の志の火は消えていないことを。

消えそうになる火を大事に抱え、疲れ果てて帰ってきた旅人が、それでもまた旅に出る姿を日々見送っているのだ。

その火の存在が、また誰かの心の火が灯る後押しとなる。

直接火を渡さずとも、近づくだけで、ポッと火が灯っていく。

そんな流れが消えていないことを知っているから、今日も私は世界の中のただ一人と、向き合い続ける。2020.6.27 Sat 10:14 Den Haag

725. 愛するということ

 

欧州連合が71日以降、日本からの渡航者を段階的に受け入れていくことを検討しているということをニュースの記事で知った。

ネットのニュースをほとんど見ない私が、唯一その動向を気にしていたことだ。

年末年始にオランダを訪れていたパートナーが1月中旬に日本に戻ってから半年が経とうとしている。

その間、話をした回数はちょうど両手で数えられるくらいだろうか。

それでも、朝起きると届いている一言の朝の挨拶が、それに対して送る一言の朝の挨拶が、確かにそこに、何かがあることを教えている。

この半年の間に、中庭の景色は随分と変わった。

大きな梨の木に、桜を思い出させるような白い花が咲き、そして散った。

今は、小さな庭に黄身色の睡蓮が咲いている。

中庭を眺める私も、この景色ほどではないが、変わっただろう。

本当の孤独を知っているからこそ、誰かと共にいることもできるのだということが今になって分かる。

愛と孤独は、決して相反関係にあるものではなく、究極の孤独の先に生まれる愛があるのだ。

そこにある愛は、自分を愛してくれる人への愛ではない。

もっと大きくて、もっと強くて、もっと果てしない。

地球を包む風のような愛。

書棚にあるエーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本が目に留まる。

我が家の書斎は、小さなスペースだが天井が高いこともあり、机と書棚の上にベッドが据え付けられている。

ここに滞在した友人の一人が、書棚にあったその本を、机の上に置いていったことがあった。

それも一つの愛の形だったのだろう。

十数年前に思っていたより、愛はもっと多様で、繊細で、色々な質感をしているということに気づく。

これまで、どれだけの愛を受け取ってきただろう。

どれだけの愛に気づいていただろう。

本を手にしてぱらぱらとページをめくる。

一箇所だけ、ページの端が折ってある箇所がある。

私は、専門書に線を引いたり書き込みをしたりすることは大いにあるのだが、ドックイヤーをすることはない。

それでも、いつかの私が、何かを伝えようとしたのだろうか。
それともここを訪れた人のうち誰かが、何かを伝えようとしたのだろうか。

ページを開く。

ページの終わりの部分、強調の点が打ってある箇所が目に留まる。

「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。」

結局のところ、そうなのだろう。

どんな人も、根底のところでは、愛したいのだ。

でもそれが恐くて、いろいろな形で、いろいろな自分になろうとする。

いろいろな言葉を使う。

愛されるに値する自分。愛するに値する自分。

でもどこまで行ってもそんな自分には行き着かなくて、愛は自分に付加された条件ではなく、保存も模倣もできない、行為なのだということに気づく頃には、愛したかった人はもういなくなっている。

そうして人間は何度生まれ変わってきたのだろうか。

中庭の葡萄の蔓に茂った葉が、駆け抜ける風に揺れる。

寝室の窓際に吊るしたチャイムが、寂しげな音の余韻を残していく。2020.6.27 Sat 18:54