721. 組織と意識

 

たくさんの鳥が鳴いている日と、そうでない日がある。

バルコニーに出て、中庭に広がる静けさを聴きながらそんなことが浮かんできた。

4軒ほど西側の家の1階部分の屋根の上に猫が座っている。朝日を浴びる猫の耳には今、どんな音が聞こえているのだろうか。

猫には明らかに「聴く」モードというのがあるように思う。聴くだけではない、全身で注意力の塊のようになるのだ。一つの対象か、それとも大きな空間かは分からないが、そこにある何かに対して、一心不乱に注意を向けている。

人間はどうだろう。人間にもそういうときはある。

その違いに意識を向けられているだろうか。必要なときに、必要な対象に、全身を以って注意を向けられているだろうか。

高等な思考をすると思われている人間だが、実際にどれだけ動物と違うだろうか。この地球が、様々な種の生命体が生きる場所としてありつづけることにどれだけの後押しができているだろうか。

目の前の人ではなく、「仕事」や「物事」とばかり向き合うようになったのはいつからだろう。人のことが「人事」だけの仕事になったのはいつからだろう。

そんなことを考えているのは、新しく携わっているプロジェクトで、組織と人について考えることが増えているためだろう。

組織は本当に人を幸せにするのか。

それができるとしたら、それはどんな組織なのか。

もし内閣解散のように、一度日本の全ての企業が「解散!」となって、その後、好きな組織に入ることも、組織に入らないで生きていくこともできるとしたら、人は今と同じ組織に所属することを選ぶのだろうか。

組織の中で人と人とをつないでいるのは、人間関係、仕事をすることから来るやりがいのようなもの、そして報酬。

それらを全て何かで賄うことができたとしたら、それでも人は今と同じ組織に所属するだろうか。

それでも同じ組織に残る理由があるとすると、それはそこにあるビジョン。もしくは存在意義。

なぜ、「我々」がいるのか。なぜ、「我々」でないとだめなのか。

リーダーは当然のことながら、それを組織にいるひとりひとりが自分の言葉で語ることのできない組織は、そう遠くない未来に、空中分解していくだろう。

会社にいないとできないと思っていたこと、個人ではできないと思っていたこと。

その多くがもう、別の形でできるようになっているのだ。

人は成長のプロセスとして慣習や誰かのやり方に倣う時期は必要だが、そこで必ずしも大きな組織に身を置く必要はない。幸か不幸か、特に日本では嫌が応にも「社会」という慣習が強く働いており、何らかの形でその関与を受けることは避けることが難しい。(その慣習があまりに早く働きすぎるための弊害もある。)

ではそんな中で、組織はどんな器になるべきなのか。

これは日本という国の経済の構造、そして一人一人の幸せに対する価値観にも関わってくるだろう。

私たちはあまりにも、「そこにあたりまえにあるもの」に無頓着だったのではないか。
自ら前提を変えていくことに挑んでこなかったのではないか。

取り組むことの壮大さに途方に暮れそうになるが、それでもそこに微かな希望があることを感じるから、遠く離れた場所からも、こうして日本のことを想っているのだろう。2020.6.24 Wed 7:28 Den Haag