717. 立ち現れる構造と成長のプロセス

いくつかの、やっておこうと思っていることをやっているうちに外が明るくなってきた。雲の間から太陽が顔を見せはじめているのだろう。

白湯を飲んだ後、バルコニーに出て中庭を見回すと、右手の、3軒ほど先の家の屋根にあかるい茶色の毛の猫が横になっているのが見えた。


どうやら私には猫センサーがあるらしい。

中庭には様々な種類の木が生えているし、中には葉が茂って森のように見える部分もある。目に入るものはたくさんある。その中で、数秒で猫の姿を捉えるのだ。

猫、鳥、花、実、葉っぱ

名前がついているものはすぐに頭の中で「それがそこにある」という意識として立ち現れる。

しかし、名前がついていないものはどうだろう。

頭の中でその名前を復唱できないが故に、「なかったこと」にしていないだろうか。

名前や言葉のない世界で、ただただそこに佇む自分でありたい。


昨日、不思議なことに気づいた。

いやもう、それはすでに気づいていたことなのだが、確かな現実としての実感を感じた。

最近、いろいろな人の話を聞いていると、その「構造」が立ち現れてくるのだ。なぜそれがその人にとって課題になるのか、喜びになるのか。話を聞いているその場ではどちらかというとそこに含まれている質感のようなものと、言葉にすることによって起こる自然な流れを大切にしているので、その構造について直接言及することはほとんどないが、対話の後に考えてみと、なるほどそういう構造だったのかということがはっきり分かるのだ。

もちろんその構造は今の私が認識しうるものの範囲内なので、一部であって全てではない。しかし、その場で聞いた話だけでなく、世の中に起こっていることや多くの人が抱えている悩みの背景のようなものが見えてくるように思う。

そして、自分自身の認識がなぜ変化したのかも分かるようになってきた。

例えば、小さい頃、「相手の気持ちになって考えなさい」と習った人は多いのではと思う。「あなたがされて嫌なことは、他の人もされて嫌だからやめなさい」と。

私も、両親から直接的にそう言われたかは分からないが、そういう価値観の中に身を置いていた。

しかし、「自分が嫌なこと」「自分が嬉しいこと」を、相手に置き換えても上手くいかないということに多々ぶつかる。

そうして大人になって、「自分が嫌なことは人も嫌だと思ってきたけど、どうやらそうとも限らないらしい」と気づく。

結局、人と自分は違うのだから、自分自身の感覚を他者もそうだろうと置き換えてもあまり意味がない。人は人、自分は自分。人のことは結局分からないのだからから、深く考えるだけ無駄。そう思って過ごしていた時期もあった。

今思えば、幼い頃にいくら「人の気持ちになって考えよう」と言われても、そんなことはできなかったのだ。自分の感じていることを他の人も感じているだろうということまでは想像できたとしても、違うことを感じているということは分からなかったのだ。

「人は自分とは違うことを感じている」ということが分かった後は、今度は「違うのであればそれに共感したり、そこから合意をしていくことはできない」と思っていた。

それは、思考回路や行動様式、習慣、価値観などの次元で相手の感じていることを捉えていたのだと思う。だから「相容れない」と思うのだ。

そして今、思考回路や価値観、感情などがどうやって生まれているのかという背景まで想像ができるようになった。そうすると、結果として違うという事実は変わらないとしても、その裏にある、人間としての共通点や、個々人としての相違点を見つけ、「そういうことか」と、理解と共感を向けられるようになった。

そして同時にこれまで「相手の気持ちになって考えなさい」と言われても、なぜそれが上手くいかないのか、なぜ「相手の気持ちになっても仕方がない」と思うようになったのかが分かるようになった。

これを世の中では成長と呼ぶのだろうか。

自分自身の中では間違いなく、捉えるものが変化していることを感じる。

そしてこの変化は、そういう変化があるという知識の習得と、現実世界に向き合う実践を同時に行なったことが大きな後押しとなっているだろう。

ここからはいかに、自分自身のこと、他者のこと、その成長のプロセスがゆっくりとした道のりであることを受け入れていけるかなのだと思う。

対話というのは、そのプロセスそのものでもある。

楽しみなことが頭にいろいろと湧き上がってきた。今日の対話に向けて、この話は忘れることにしよう。2020.6.21 Sun 10:07 Den Haag