710. 声の変化

 

今日も湿気を含んだような雲が空に広がっている。バルコニーに出ると、むわっとまではいかないものの、爽やかさよりも少し重さのある緑の香りが昇ってくる。

それ以上に、今日もすでに家の中にペンキの匂いが充満している。8時を過ぎた頃にやってきたであろう塗装職人が、今日は音楽をかけず静かに作業を始めたようだ。ちょうど作業が始まった頃に私は日課である、祈りの言葉を読み上げていたのだが、言葉の意味の分からない人には、世界の循環の一部になることと心の平和を祈る言葉が宗教的な祈りの言葉の響きに聞こえていたかもしれない。

おそらくそうだろう。その言葉の意味や言葉そのものに関わらず、そこに深い願いを持った言葉というのは独特の響きがある。

どんなちょっとした質問に対しても、自分が投げかける言葉の一つ一つに対しても、相手への可能性に向けた純粋な願いを込めることができるか。それが、心とつながった言葉であり、相手の心の中に何かが生まれる言葉なのではないかと、そんなことを最近思っている。

今朝も割とたくさんの人が出てくる夢を見ていたが、その内容についてはほとんど忘れてしまった。覚えているのは、中高の同級生で親友だった女性が出てきたこと、工作のように何かをつくるシーンがあったことだ。

夢は無意識の投影と言うが、夢を掴まえるのはなかなか難しい。日記に夢の中で起きたことを詳しく書いている友人がいるが、いつもよくそんなに詳細を覚えているものだと驚かされる。

その友人は探究的で芸術・表現活動を旺盛に行う毎日を送っているが、夢の中では色々な場所や人が現れているようだ。私も現実世界での行動範囲は至って狭いのだが、夢の中では色々な場所や人が現れる。これが、例えば毎日多くの人と会うような人だと夢の世界にあまり人が出てこなかったりするのだろうか。それとも更にたくさんの人が登場するのだろうか。

そして、物理的な肉体としての身体の重さ(粒度のようなもの)と、夢の中の感覚は関係があるのだろうか。(あるような気がしている。)

そういえば最近、声の質が変わったということを明確に感じた。五十音に合わせた動きをしながらの発声はもう一年ほど続けていて、心と深くつながった声に近づいているのではないかという実感はあったが、数日前、セッションの前に発声をしたときに、驚くほどすんなり身体の中を通り抜ける声の感覚があった。

ということはこれは、声の変化ではなく、身体そのものの変化なのだろうか。細胞と細胞の間に十分な余白があって。声の波が取り抜けていくのに合わせてそこにある細胞が十分に揺れる。そんな感覚なのかもしれない。

自分の声もすうっと通り抜けるし、人の声も心地よく感じることが多くなった。以前は頭から出ているような声を聞くとなんだか喉や胸が詰まっていくような感じがして、その後身体をととのえるのにエネルギーが必要だったが、それは声とエネルギーの受容体としての私の状態が十分でなかったのかもしれない。

相手の発している言葉の意味ではなく、音の響きをそのままに受け取ることができたとき、心の中に自然とその人が見ている情景が浮かび上がる。そんな気がする。本来、誰にも共有することができない心の目で見た世界を共に見つめるまなざしがあることが、その人の心が静けさと強さを取り戻し、持っている力を発揮していくことの後押しになるだろう。

今日は目覚めて間も無く、構造として整理し、言葉にしたいことが降りてきていた。アウトプットというのは無理やり行うものではなく、現実世界にまっすぐに向き合うあり方と、適切なインプットがあれば、自然と、「自分ができること」「世界に対する提案」としてのアウトプットを行いたくなるのだということを感じる。物事に追われるだけでも、インプットをするだけでも、私にとってはバランスが崩れてしまう。

最近は特段「もっとこんなことをやってやろう」とか「新しいことをやろう!」という意欲は大きくなく、今の暮らしの延長線上で、質としてさらに良いものを提供していけたらいいなという願いがある。工夫や成長、新しいものはそのプロセスで自然と生まれていくはずだ。


これは年齢によるものなのか、人生のステージが変わってきているのか。いずれにせよ数年前とは見ている世界、感じている感覚が大きく違うように思う。2020.6.16 Tue 8:48 Den Haag


711. 視点の変化

言葉というのは本当に面白い。

言葉にしてもしなくても、そこにあるものが立ち現れてくるのだ。

いつもその対象を注意深く見つめていなければおそらくそのことには気づかないだろう。しかし間違いなく、言葉には「不在」という存在がある。本来あるべきものがそこにないのだ。

ないということはあることよりも多くを語る。

日々様々な形の言葉と向き合い、そんなことを考えている。

今日はこれまでとは違うスタイルでパワーポイントを作成した。

最近、コーチングについて学んでいる人やコーチになりたいという人からの相談が増えてきており、それに対して私ができることは、これまで自分が学んできたことや実践してきたことを、何らかの形でアウトプットしていくことだという結論に至った。

結論というか、その試みをしてみようというプロセスにいるところなのだが。

今日はそのアウトプットの一部として作成する図のスタイルを変えてみたのだ。きっかけは先日目にしたnoteの記事で、一見、いくらでも難解にできるようなテーマを分かりやすくシンプルに表現している人を見かけたためだ。


経歴やこれまでアウトプットされたものを見る限りでも、やろうと思えばその何倍もの分量で説明できるであろうと感じた。


それを見て、私もその人のスタイルで表現してみようと思った。


随分以前の私であれば、見えていることを表面的に真似していただろう。
少し前の私であれば、自分のスタイルを頑なに貫いていただろう。

それが、今日の私は、自分が美しいと感じていたスタイルを一旦手放し、読み手として良いと思った構造を反映させ、さらにあらためてそれを美しいと感じるものに仕上げるという調整をした。

途中、作り手と読み手の立場を行ったりきたりしながら、最終的にそのどちらもが重なった地点に着地したような感じだ。

誰かにただ倣うわけでもない、自分をただ貫くわけでもない。

自分の中でそれは不思議な、新しい感覚だった。

新しい視点が発揮されようとしているのだろうか。

まだ手探りではあるが、確信もあって、この感覚を発揮するとまた新たな表現をしていけるのではないかという気がしている。

まだ言葉にし残したこともある感覚があるが、今日はやり残したことがある。明日に向かい始める時間の中で、今ここに深く留まり続けたい。2020.6.16 Tue 20:52 Den Haag