708. 正義に関する恐ろしい夢

 

家の中に、珍しく大きな音が響いている。ここで言う「家の中」とは、私が暮らしている建物全体のことだ。

オランダの伝統的なつくりである我が家は、日本式の一階、二階、三階にそれぞれ異なる人が住んでいるが(一階にはオーナーのヤンさんが住んでいる)、玄関は一つ。階段も内階段を共有していて、階段の横に各階の廊下がある。

そのため、階段や廊下の音は各階に響きやすい。

ヤンさんは聖歌隊(コーラスと言った方がいいのだろうか)に入っていることもあり、クラシックな音楽が聞こえてくることはあるが今日はなかなかのロックだ。

そもそもヤンさんがこの家で作業をしているのは久しぶりだ。

3月の下旬に外出自粛の呼びかけが出されて以降、ヤンさんはパートナーのところで暮らしていた。そこは小さな街で人も少ないからこの家よりも落ち着いて、人とも接触せずに暮らせるのだという。(私からすればこの家の周辺も、十分に落ち着いているのだが。)

そういえば今朝も恐ろしい夢を見た。

舞台は東京。飯田橋から神楽坂に向かう、少し大きな通りを歩いていた。東京の会社に転職したとき家探しで訪れた場所だ。そのときに見た比較的大きなマンションが通りの右手に見えた。

日暮れの後、真っ暗にはなりきっていない中、なだらかに坂になった道を進む。

そこからシーンは変わり、おそらく翌朝になった。滞在していたホテルを後にした私は電車で数駅行ったところで人と会うことにしていたようだ。なぜか手には四つ折りにした(それでもかなり大きい)掛け布団を持っていて、途中で「なぜ私はスーツケースではなく掛け布団を持ってきてしまったのか」と後悔をする。

合流したのは、東京の企業の同僚の女性だった。彼女は昨年出産をしたが、夢の中ではこれから出産をするということになっていた。

彼女と話しながら歩いていたら、左手にある二車線の広い道路の向こうに人だかりができていることに気づく。ただならない雰囲気に目をこらすと、二人の男性がもみ合っているのが見えた。近くにはバンのような車が止まっており、一人はその運転手の男性のようだ。

数分前にその車の運転手と通行人が口論のようなものをしていたということを思い出す。車の運転手が通行にいちゃもんをつけているようにも見えた。

今、その運転手の男性は後ろ向きだがこちらに向いているもう一人の男性と周囲の人の様子から、もう一人の男性が一線を越えてしまったのだということが分かる。男性は身体が血まみれになっており、右手の手首から先がなくなっている。なぜかはわからないがその様子から私は、男性が運転手の内臓を素手で潰したのだということを思った。それは私の中の想像だが、同時に、夢の中においては真実だった。

どんな正義も行きすぎては過ちになってしまう。

そんな言葉と、ショッキングなシーンを見てしまった恐ろしさとともに目が覚めた。

時刻を確認すると4時台。恐ろしいほどの静けさの中、一筋の鳥の鳴き声が聞こえる。

頭の中で何度も最後のシーンが蘇り、心地悪さが広がる。こうやって人は一度しか起こっていないことを何度も脳内で再生し、強烈な記憶として残していくのだろう。

それぞれの人にとって正しさがある。その正しさが衝突や憎しみを生む。

この夢が私に伝えることがあるとすると、自分の中の正しさが刃のようになっていないかということだろうか。

今日も空には雲が広がり、少しの湿気が空気に含まれている。今日も雨が降るかもしれない。正しさや恐れではなく、愛とともにどう生きられるか。そんなことを今日も問われている。2020.6.15 Mon 8:37 Den Haag

709. 「誰か」の正体と違和感の正体

 

寝室にも、その隣にある小さな書斎にも、ペンキの匂いが充満している。


あれは何時頃だっただろうか。ガタガタと下の階で物音が続いていた。騒音というほどではないが、いつも静かなこの家には珍しい。階下に住むオーナーのヤンさんが何かしているのだろうか。そんなことを考えながら数分を過ごし、トイレに行こうと寝室から廊下に続く扉を開いた。

すると、廊下にも階段にもビニールシートや布のシートが敷いてあり、さらに扉の前には背の高い脚立も立てられていた。

そして階下からはペンキの匂いが漂ってきていた。どうやら壁や天井のペンキを塗り直しているのだと分かる。

そう言えば先週の中頃、久しぶりに家に帰ってきたヤンさんが私の部屋にやってきて「来週の月曜に誰かが来る」と言った。「誰か」とは、私が名前を聞き取れなかったわけではなく「someone」と言ったのだ。

ヤンさんは「誰かが来て天井を見る」「鍵はその人が持っている」ということを伝えてきた。

状況がよく分からない。分からないがヤンさんが特に私に何かを頼むわけでもなく、そのことを情報として告げたということは分かった。

「誰か」とは、塗装職人のことで、「天井を見る」とは、ペンキを塗り替えるということだったのだ。

どうりで今朝耳慣れない音楽が聞こえてきていたわけだ。ロックな音楽をかけていたのはヤンさんではなく、塗装職人だったのだ。

それにしても家主のいない家に自ら入ってきて音楽をかけさくさくと作業をするとは。ヤンさんとの信頼関係があってのことだろうが(それにしてはなぜ「someone」になるのか分からない。塗装職人を指す英語が浮かばずにとっさに口にした言葉が「someone」だったのだろうか。)、それにしても、である。

オランダは目的合理主義の国だというが、家主がいないときに家に来て作業をして帰っていくというのはある意味とても合理的ではある。

私の経験上、家の手入れをする人たちは音楽と口笛とともに機嫌良く作業をしている。これもある意味、合理的というか、「それで仕事が楽しくはかどるならいいだろう」という気がしてくる。ヤンさんもよく口笛を吹いている。

小さい頃、口笛を吹くと「行儀が悪い」と言われたことがあったように思うが、どうやらこの国では口笛を吹くことは特に憚られる行為ではないようだ。

今日、この日記を書く前にインテグラル理論に関連する書籍を読んでいたのだが、その中でシャドウのことが頭の中を回っていた。

例えば今日感じた違和感や私が見た世界が、シャドウ、自分自身が切り放そうとしているものの投影であるとするとどうだろう。


そこにあるシャドウに向き合えば、対話の場で起こることにも変化が起こるだろうか。それとも、変化はなくとも自分自身の感じ方が変わるだろうか。


そう思って、変化が起こることを期待してシャドウに向き合うのもおかしな話かもしれないという気がしてくる。そこに少しでも相手を変えようという意図があったなら、その時点で取り組みは利己的なものとなるだろう。

「何かを超越しよう」「特別な自分になろう」とすることも、自己を高尚な存在にすることへの執着があるようにも思う。(そう思わせているのも私自身なのだろうか。)

そこに意図や管理を持たず、迷子になった幼い子どもと共にあるようにただただ一緒に時を過ごす。

自分自身に対してそうありたいし、他者に対してもそうありたい。

5月に参加していたセルフコンパッションの講座で体験をした在り方を自分のものとできたら、そのとき世界は今とは全く違ったものに見えているのかもしれない。2020.6.15 Mon 19:24 Den Haag