707. 夢の世界での死と集団的無意識

静かな日曜日。

そんな言葉が浮かび、同時に、「平日」が戻ってきていたのだということに気づく。

人間の活動が減ると、世界は静かなのだ。


今日は夢の中で人が死んだ。

私の夢の中で人が死ぬことはそう多くはない。全ての夢を覚えているわけではないけれど。

舞台はディズニーランドの近くの広場のような場所だった。数組の高校生か大学生くらいの男性のグループが、何かの試合をしていた。トーナメントの末、一位のチームが決まった。そこまでは淡々と物事が進んではずだ。

一位のチームが決まり、喜びに包まれたメンバーたちが表彰されるかと思いきや、こともあろうか、一位のチームのリーダーが対戦相手だったチームのメンバーに危害を加え、自決したのだ。

その場は騒然となっていた。

残ったメンバーの話で、リーダーをはじめとしたチームのメンバーが、試合が始まる前に行われたディズニーランド内で移動について不満を持っていたということがわかった。移動の際にステップを踏んで踊るということをさせられたのが嫌だったというのだ。

夢の中では映画のように、そのシーンに時間が戻るということが起こった。確かに、バラバラとステップを踏みながら進む男性たちは一向に楽しそうではない。

しかし、それが、人を自決にまで至らしめるのだろうか。

重苦しい後味の悪さを残して目が覚めた。


その後、また何度か夢と現実を行き来し、ようやくベッドから出たのはそれからさらに2時間ほど後だった。

ボーッとシャワーを浴びながら、「集団的無意識」という言葉が浮かんできた。

あの夢は、私の中にあるものとつながっているのと同時に、社会と呼ばれる、目には見えない人々の意識の集合ともつながっているように思えたのだ。

慣習に従い、自分を押し殺すことが積もり積もって、あるとき、他者を傷つけ、自分自身をも殺すという形で噴出する。

そんな物語がそこにあったようにも思う。

「夢の世界での死は、現実世界での目覚め」

鬼滅の刃という漫画に出てきた、そんな言葉を思い出す。

死は、終わりであり、始まりであるのだ。

夢の世界で、私の一部が死んだ。
あらたにどんなものが生まれたのだろう。

人は毎日、死んでは生まれているのかもしれない。
今日どんな私が生まれたのか。

そんなことに意識と感覚を向けながら1日を過ごしてみたい。2020.6.14 Sun 9:01 Den Haag