706. 手を振る顔見知りができたこの街で


この静けさは、昨日、対話のときに感じたものと同じだ。

そこに何もない。空であり、全て。

戻りたい場所はもうすでに自分の中にあったのだと気づくとき、人は自分の強さと弱さの両方を、優しく抱き締められるのかもしれない。

昨日捨て忘れたゴミの袋を持って玄関を出ると、通りの真ん中のトラムの線路の間、街路樹の植えられている場所を、黒い大きな犬と、犬を散歩させている人が歩いているのが見えた。ポンポンと犬の背中をたたき、向きを変えて戻ってくる。目が合い、手を振る。どっしりとした身体に、お腹が少し出ていて、特段にこにこしているわけでもないのだが、手を振ると、はにかんだように笑って手を振り返してくれる。

この街の顔見知りになった人たちは皆よく手を振ってくれる。ショーウィンドウ越しに、道路越しに。

犬の散歩をしている男性はいつからともなく手を振るようになった。リビングの窓から通りが見えるが、男性が、私にするのと同じように、はにかみながら道路越しを歩く人に手を振っているのを見たことがある。

関係性、というには大げさだけど、ささやかな関係がそこにあり、それが日々の暮らしの中に少しあれば、人はちょっと幸せに生きられるのではないかという気がしている。

100mほど歩いたところにあるダストシュートにゴミを捨てて戻ろうと思っていたが、静かな外の空気があまりに気持ちよくてそのまま散歩を続けることにした。道路を渡り、運河沿いの道を歩く。

運河に面して建てられたボートハウスを眺めながら、2年前、オランダに来たばかりの頃を思い出す。スーツケースと大きなリュックサック一つ。ドイツで一緒に暮らしていたパートナーと距離を置くことを決め、一人オランダにやってきた。ハーグの街に暮らすことを決めたのは、海が近くにあったこと、そして知人づてに紹介してもらった、オランダ人のパートナーがいる女性が部屋を貸してくれることになったためだ。
彼女以外に、知っている人も頼る人もいない。

フランクフルトから電車を乗り継ぎ5時間ほど。新しい世界に踏み出すことへの期待と、これから一人で暮らしていくという不安、寂しさ、自由、色々なものがないまぜになった心とともにハーグの駅に降り立った。

女性が案内してくれた部屋はstudioと呼ばれる小さなワンルームタイプの部屋だった。贅沢ではないが、本当に好きなものだけが集められた可愛らしい部屋。締まりの悪い窓の外からカモメの声が聞こえてくる。

それが私のオランダでの暮らしのはじまりだった。

ハーグは思った以上に住宅不足で、家探しには苦労した。1ヶ月の家探しの末、やっと見つけた今の家は、小さなワンルームの3倍くらいの広さで、一人で暮らすにはもったいないくらいだったけれど、日当たりがよくて、中庭に面したバルコニーも気持ちがよくて、あっという間にここでの暮らしを気に入った。

オランダに来てからのことを振り返ると色々出てきそうだが、それは8月、オランダ来て2年を迎えたときにまた書いてみようと思う。

今日は一旦、先ほどの散歩のときに考えていたことに戻ろう。

橋を渡り、運河沿いの道を家の方に戻ってくる途中、生き方や暮らし方というテーマについて考えていた。

コーチになる前に携わっていた移住促進などの仕事、そして今オランダで暮らしているということ、さらにはライフスタイルに関わるような企業と協業しているということ、これらに、私がコーチングのテーマとしている「本来持っている力を発揮する」ということを掛け合わせると、もしかすると今、働き方や生き方を考えている人たちの後押しになるだろうか。

ひとりひとりが、自らの命を輝かせて生きるような、そんなことを後押しできるだろうか。

表面的なスタイルではなく、生き方、在り方を考えること。


これは自分自身がこれまで向き合ってきたことであり、向き合う力がついたことそのもの価値のように思う。

誰かのようになろうとするのではなく、自分自身の心の声を聞く。

現在携わっているビジネスという領域を越えて、もっと生き方そのものに関わることができたら何が起こるだろうか。

あれこれと思考が始まり、脳がお散歩を始めた。

このテーマについても、また改めて考えていきたい。2020.6.13 Sat 9:02 Den Haag