704. 肩こりを辿って

肩の凝りを感じ始めたのは昨晩のことだったと思う。

学生と呼ぶにはまだ幼い頃から、肩こりがあった。社会人になってもそれが続き、そういう体質なのだと思ってきた。

東京の企業で働いていたときは平日は朝7時から夜23時まで仕事に没頭し、週末は毎週のようにマッサージに足を運ぶという生活をしていた。

それが、5年半前に会社を辞めてから、びっくりするくらい肩こりから解放された。いやむしろ、長年そこにあった重いものを思い返してびっくりしたと言った方がいい。

それ以降、よっぽど長時間パソコンに向かっていたとか、ベッドの中で横を向いて本を読んでいたということがない限り肩に違和感を感じることはほとんどない。

そんなわけで、今感じている肩の重みが何からきているのだろうということが気になっている。

昨晩は久しぶりに遅くまでパソコン作業をしていた。しかも机ではなく寝室のソファーで。ソファーでの読書や作業は、身体としては楽なのだが、机を使うときよりも本やパソコンの位置が下がり、それに伴って頭も前傾となる。それに伴って背中も丸まる。姿勢としても思考能力としてもあまり良くないのではないかと思う。

ソファに座るときは大抵、机での姿勢に疲れたときであり、それは多くの場合夕方以降、夜の時間なのだが、そもそもその時間に思考を使う活動をしない方が良いのだろう。ついつい目の前のことを進めたいと思ってしまうが、低下している思考と感覚で向き合い、満足なものが仕上がらないか、そこそこになってしまい、結局時間がかかってしまうことになる。

1日の中でもっと考えたいこと、つくりたいものがある、そのためにはそれらに向き合える時間が必要だと思っていたが、時間を減らして、質を上げるという方が長い目で見たときに質の良いものをアウトプットし続けられ、心の満足度も高いだろう。

表面上の感覚では気づいていなかったが、こうして言葉にすることを進め、そのスピードや、書いているときの感覚から、やはり昨晩の遅くまでの作業が今に響いていることを感じる。土日も予定が入っているため、今日は休養日に近い。

ほどほどに頭を使い、できれば散歩にでも行きたい。2020.6.12 Fri 8:42 Den Haag

705. 感情と限界を生み出している、人生に対する認識

 

雨がやってくる。

そう思って開け放っていたバルコニーに続く窓を閉めたのは、3時間ほど前だっただろうか。しばらくは晴れ間が続いていたが、やがてぱらぱらと雨が降り始めた。そして次第に、ばたばたと強い音を立てるようになった。

オランダに暮らして丸二年。雨がやってくる気配が分かるようになった。

風が拭くのだ。

冷たい風。

それがどこからともなく吹いてくる。

それが雨がやってくる印だ。

今日は心を刺激することがあった。怒りや不安などの大きな感情が現れているわけではない。しかしそれが確実に、心の琴線に触れているということが分かる。

その奥には何があるのだろう。

自分への好奇心が湧いてくる。

目を閉じて深呼吸をすると、もやもやとしたものが胸の中に浮いている感覚がある。灰色のテグスが絡まっているような感じだ。

刺激となった出来事を思い出してみると「目的と手段が入れ替わっている」という言葉が湧いてくる。それは批判の色を持って響いている。目的と手段が入れ替わってしまうということを作り出すシステムの構造自体に、腹立たしさのようなものさえ感じられる。

本来、質や信頼を示すはずだったものが、ヒエラルキーとなり、そのヒエラルギーの上に登るために顧客が利用される。

そんな風に見えるということが、私自身がそういうメガネをかけて世界を見ているということだろうか。あの、ヒエラルキーに見えているものはもっと違う側面を持っているのだろうか。今の私が思うよりずっと、健全で、本質的で、本来掲げている目的を達成するための場になっているのだろうか。

張りボテのように見える仕組みや組織が、本当は中身のあるものなのだろうか。

少なくともそれを正しいと見ていない自分が今ここにいて、それを正しと見ている人もまたどこかにいるということが事実だろう。おそらく、お互いにものごとの違う側面を見ているのだ。

あらゆるものが「色々な側面があるから」と言ってしまえばそれまでということになる。しかしそれになお抗おうとする自分がいる。「やはりその構造には欠陥があるのではないか」と言いたいのだ。

しかしそれについて自分自身が何かアクションをする気がないのであれば、そんな声を上げるというのもおかしいのだろうかという気もしてくる。それでもやはり、言わずにはいられない自分がいる。

その自分は、人生は有限だと思っている。だから、本質ではないものを追い求めるのに時間を費やすのは人生における損失なのではないかと思っているのだ。

こう書きながら随分と強い「正しさ」が自分の中にあるものだとおかしささえ感じてくる。

そこまで頑ななものの裏側には、命の輝きを望む声があるのだ。自分を含め、一人一人の命が輝く様子を見たい。奇跡のような創造や出会いの瞬間を見続けたい。そんな願いがあるのだ。

心の中の違和感の先にあるもの。それは命のダンスへの渇望、解放への渇望、自由への渇望。

そんなものがあるということは、まだ自分を縛っているものがあるということだ。
自分を縛る外的なものなどもう(最初から)何もないはずなのに。

もし仮に、人生は有限であるという意識が更新されたなら、この感覚も変わるのだろうか。

時間に限りのある人生。今の私の制限を生み出している認識はそういうものだと思う。もう少し他にもあるだろう。小さな違和感に向き合い続ければ、だんだんと今は見えていないものも見えてくるに違いない。2020.6.12 Fri 19:46 Den Haag