699. 二つの夢


バルコニーに出ると、はす向かいの家の前のガーデンハウスの上に、黒猫の背中が見えた。木の枝の陰にいるので背中しか見えない。ころんと弧を描いた背中を見て可愛いなあと思い、さらに肩の部分を見て「猫はなで肩なのか」などということを思う。絶壁のような猫の後頭部がたまらなく好きだと思ってきたが、丸い背中もなで肩も同じように好きなのだということに気づく。

こうして書きながら「猫がいかり肩だったらどんな感じなんだろう」ということを想像し、にやけている。細い隙間に肩が引っかかりおっとっととなるおっちょこちょいな猫が思い浮かぶ。それはそれで愛らしい。結局のところ私は猫そのものが大好きなのだ。

今朝は怖い夢を見た。嫌な感覚で目が覚めたのが4時半。まだ外は暗く、起きるには早いと思ったものの、しばらく寝付けずにいた。

今覚えているのは起きる直前の場面だ。

夜がだいぶ迫った夕暮れ時、小さな部屋に何人かの人がいた。すでに何人かの人が出て行き残っていたのは5人ほどだったと思う。そのうち二人が「じゃあ先に行くね」と部屋を出ようとしていた。手には大きめの試験管のようなものを持っている。「これをあいつにかけるんだ」と言ったか言わなかったかは忘れたが、とにかくその試験管の中に入っている透明の液体を、二人が誰かにかけようとしていることを私は知っていた。そして部屋を出てすぐのところで二人はやってきた男性に試験管の中身の液体をかけた。それが何かは分からずとも男性の反応から、それが危険な液体であることが分かった。(その前からそれが危険な液体であることには気づいていたのだが。)しかし、液体をかけられた男性はひるまず、ホースのようなもので、今度は同じように透明な液体を二人にかけ、そして部屋の中にいる私たちにもかけてきた。

液体がかかり、恐怖や痛みを感じたところで目が覚めた。

恐ろしい夢だった。

これは私の中の何かを示しているのだろうか。最後にホースで液体をかけてきた男性のことをどこかで「かわいそうだ」と思っていた自分がいることを思い出す。

書きながら思い出したが、そういえば再び眠りについた後、もう一度夢を見た。

友人が、ウェブ上である店の求人の文章を書いたという話だった。その店の様子を見に行くと、ちょうど電話がかかってきて、店にいた女性が面接の日程を壁にかけたカレンダーに書き込んでいた。ウェブで公開した文章の効果があったようで、カレンダーにはびっしりと面接の予定が書き込まれていた。効果が出て何よりだ、でも今は話す時間がなさそうだと思い、店主の男性に軽く声をかけて店を出た。文章を書いた友人のところに戻ると、友人が「ページの閲覧数で報酬が決まる仕組みになっている」という話をした。ざっくり計算するとなかなか良い報酬を受け取ることになると思ったが、その直後に1桁多く計算をしていたことに気づく。1桁少ないとなると、まずまずの報酬だななどと言うことを考えたことを覚えている。

その話より後だったと思うが、別の場所でオレンジ色の果物を食べるシーンもあった。その果物は、なた豆を大きくしたような、半月にも平らだけど厚みもある見かけをしており、それを半分に割って、中の果肉をすくって食べるというものだった。何人かすでに食べている人がいる中で老齢の男性にその果物を渡され、その形状をじっと眺めた私は「これはカリンですか」という言葉を口にする。そうすると男性がそうだと答える。実際のカリンと形状は大きく違うのだが、夢の中の私は、手に取ったときの微かな香りからそれがカリンだと思ったようだ。

こうして書きながら、不思議なことに気づく。記憶している限り(と言ってもその記憶は怪しいものだが)私の夢に「香り」は登場してこなかったはずだ。「香り」という概念自体はあっても、実際に香りを感じるということはなかったように思う。そしてその理由は定かではないが、私は夢には香りが出てこないと考えている。「香りと記憶が結びつくのは、夢の世界ではなく、目覚めている世界でのこと」と思っている節がある。

もしその仮説が正しいとすると、カリンの香りを感じたとき、私は夢の世界と目覚めた世界の狭間にいたのだろうか。それともすでに目覚めていたのだろうか。

どの夢を先に見たのか、後に見たのか、前後関係も定かではなくなってきた。

不思議な夢の感覚とともに、1日が始まっていく。2020.6.9 Tue 9:07 Den Haag

700. 24時間制の毎日に思う


庭の木の影が、向かいの家の壁にハッキリと映し出されている。20時半を迎えようとしているのにこんなにも明るいなんて。

そんな感覚があるせいか、先ほどふと、「もし1日が24時間ではなかったらどうやって過ごすだろう」という問いが浮かんだ。「もし暗くならなかったら」と言った方がいいかもしれない。

仮に自分で「1日」という区切りをつけることができて、それで支障なく生活できるとしたら

私は、身体を使う活動→思考を使う活動→食事→睡眠を、今よりもっと細かいリズムで繰り返すかもしれない。いや、実質一般的に言われる食事は夜にしか摂っていないのだから、今とあまり変わらない生活になるだろうか。それでも昼過ぎに軽く食べ物を摂った後の睡眠をもっとガッツリ取るだろう。その結果、次に寝るのが少し後ろ倒しになることになる。二日で三回の睡眠を取る。そんなイメージになるだろうか。

そもそも身体が持っているリズムは24時間よりも短かったはずだ。そう考えると皆が同じ時間に学校に行ったり会社に行ったりするというのはなかなかの力技というか、身体の自然なリズムを無視した活動にも近いのではとさえ思えてくる。

中学受験をしたので小学校六年生のときだけ塾に通っていたが、今思えば12歳の子供が21時過ぎまで外出先で勉強し、電車に乗って帰ってくるなんて、頭というよりも身体に結構な負担がかかっていたのではないかと思う。

結果として中高一貫の学校に入り、高校受験をしなかったのでその分15歳頃はのびのびと過ごしていたのだが、小学生のうちにたくさん勉強をしたのと、どちらが良かったかというと分からない。

通った中高は自由な校風で私の気質には合っていたと思うのでそれは本当に良かったと思うのだが、もし仮に自分に子どもがいたら受験勉強をさせたいかというとそうは思わない。できれば受験勉強などというものからは距離を置いて、いつまでものびのびとやっていればいいと思う。自分自身の全体が発揮されて、面白いと思うものがあれば勝手に熱中するだろうし、一般的な生活をするのに大切なのは勉強と名のつくものから学んだことよりも、社会に出て実際にぶつかった課題から学んだことのように思う。

昨日今日は、ここのところ整理しようと思っていたことを少し進めることができた。セッションのように対話的な時間と、一人で行うインプット、そして一人で行うアウトプットの時間のバランスが良いと、いいサイクルがくるくると回り始める。一方で、どれかに偏るとその偏ったものの取り組みさえも鈍いものとなってしまう。

バランス良く3つの要素を実践していきたいと思うものの、目の前のことに熱中してしまう節があるので、こんな風に外が明るい時期はふと気づけば20時を過ぎていたということも多い。

そろそろ、時間にも気持ちにも余裕を持って向き合えるセッションの上限に、実際のセッションの状況が近づこうとしている。しかし、自分ができることを社会に還元したいという想いもある。コラムや書籍の執筆、学習の教材の作成などに力を入れればそれが叶うだろうか。特に書籍の執筆については昨年の秋から取り組んでいるものがのびのびになってしまっているので、この夏には形として仕上げたい。

構成を練ったときに世界が現在のような状況になるなどとは思ってもみなかったが、改めて、「コミュニケーションに関する認識をアップデートする」というテーマは今、そしてこれからの世界に必要なものだと感じる。新しいスキルを学ぶよりも、自分が持っている思い込みや一体となっているものに目を向ければ、自然とコミュニケーションの質は更新され、他者との関係性も更新されていくのだ。

学びを続けていると、それとは別に、自分の言葉でまとめなおしたいことがどんどんと出てくる。悩ましい。思考と感覚をどれだけ明晰な状態に保って1日を過ごすことができるか。それをこの、「24時間制」という中でいかに実践することができるか。このチャレンジのプロセスに向き合えば、その先には新たな1日、一ヶ月、一年の過ごし方に出会える予感がしている。2020.6.9 Tue 20:50 Den Haag