697. 母の記憶

メールの返信を終え、開いていたウィンドウを全て閉じて、新しいワードのファイルだけを開いた。真っ白な紙だけが表示された画面を見て、まだ心の中にはいろいろなものがあることに気づく。

中庭に目を向けると、二羽の鳩がガーデンハウスの上をつつきながら歩き回っている。そばにある梨の木には、実のようなものが成り始めている。さらに木の上の方に視線を向ける。鳩とはまた違う、毛のふわふわした鳥が一羽、そして一回り小さい黒い鳥が一羽。

10mほど離れた隣家の1階部分の屋根の上には黒猫が丸まっている。

今日も朝から雨が降っていた。いや、昨晩遅くにバタバタと降り始めた雨が、朝まで降り続いていたのだろうか。

布団の中でしばらく雨音を聞いた。

数日前、スーパーで会った顔見知りのスタッフが、嬉しそうに「いい天気だね」と言っていたことを思い出す。天気が変わりやすいこの街では、この時期に3日間以上晴れの日が続くのは珍しいのかもしれない。

この3日間は随分と気温も下がっている。以前、オランダ北部の街に住む友人が「6月にもマフラーが必要だった」という話をしていたことを思い出す。さすがにコートももう春物を羽織っているが、極度の寒がりの私としては今日のように寒い日は再び家の中の暖房をつけたくなるくらいだ。

月の巡りから身体が冷える時期だということもあり、足湯をしたが、外の気温自体が下がっているのだろう。

足湯のために小さなバケツにお湯を入れながら、「子どもの頃も家で足湯をしていたけれど、母親はよく適切にお湯の温度を調整してくれていたな」という考えが浮かんだ。

自分でやってみて分かったのだが、足湯のための湯の温度を適切に設定するのは意外と難しい。

熱すぎると足を入れることができないし、ぬるいと湯がすぐに冷めてしまう。

何より、手先と足先の体温が違うことから、手で触ってみてちょうどいいと思ったものも足を入れるとまだまだ熱いということがある。(私はそれだけ足先が冷えているということだ。)

ましてや、大人と子どもは体温も皮膚の厚さも違うだろう。

よほど注意深く反応を見ながら調整してくれていたのかと思う一方で、私の中で多少、記憶が大げさになっているかもしれないという気もしてくる。

もしかしたら、熱かったりぬるかったりということもあったかもしれない。

しかし私にとって足湯の記憶は「母が自分のために適温の湯を用意してくれた」というものになっている。

なぜそういう記憶として心に残るのか。

一つは両親はあまりあれこれ子どもの世話をしようというタイプではなかったということがあるだろう。これでは語弊がある。「過剰に世話を焼かない」と言った方がいいだろうか。

基本的には自分がリクエストしたことに対して反応は返ってくるが「言ってもないことをやってくれる」ということは他の家に比べると少なかったのではと思っている。

「自分の希望は、自分の言葉で表現する」というのが我が家の教育方針だったのだろうと想像している。

同時に、私は三人兄妹の真ん中という立場上、あまり自分にだけ構われたということがなかったように思う。きっと本当は私が思っている以上に、見守ってもらっていただろう。しかし気づけば一人で写っている写真がほとんどなかったという事実に気づいたことが、さらに「あまり自分だけに構われたことがなかった」という記憶を大きくさせているのだろう。

そんな私にとって、母が自分のために足湯を用意してくれるというのはとても嬉しい思い出として残っているのだ。

もう一つ、鮮明に残っている「嬉しかった記憶」がある。

幼稚園の卒園式で母に髪を結んでもらったことだ。

そのときに結んでもらったということはきっとそれまでも何度も結んでもらったことがあっただろう。しかし、卒園式のときは結んだ髪にさらに白いリボンをつけてもらい、それは私にとってとても特別なことだった。

母が短い髪が好きだったのか、小学校に上がって以降、髪が短かったことが多い。後にも先にも、結んだ髪にリボンをつけてもらったのはそのときだけだったように思う。

久しぶりに思い出した記憶だ。

なぜ私は今、これらのことについて思い出しているのだろうか。

胸の中には何か、厚みのあるあたたかさが現れている。

その感覚を感じてみる。

愛、つながり、ふれあいという言葉が湧いてくる。

今私の中にあるニーズであり、憧れだろう。

ただ、満たされていないという欠乏感があるかというとそうではない。自分が愛されてきたという実感を、あたたかさを持って感じる。愛されたいのではなく、愛したいということなのかもしれない。自分がそうされたように。

一方で、ひとりでいることで持つことができる多いなるスペースに満たされている自分もいる。私の中ではまだ、そのスペースは限りがあるもので、他者の存在によって縮むものだという認識がある。今後、その認識は変わっていくのだろうか。他者とともにいながらも大いなるスペースを感じることができるのだろうか。

making space」は、私が世界に対して持っているテーマだと思っていたが、それは何より自分に向けられたものだったと気づく。

結局のところ世界へ向ける希望や想いはどこまで行っても自分自身の内面の投影なのだろうか。

2020.6.7 Sun 20:24 Den Haag