696. 余白をつくる


昨日は久しぶりにゴミを捨て忘れた。

金曜日と言えば本来は週に一度、唯一「曜日」を明確に認識するタイミングであり、それは「ゴミ捨て」という行為と紐づいている。

朝、窓の外を眺め、道路脇に点々と置かれたゴミ袋を見て「今日はゴミ捨ての日だった」と気づくのだ。

そして、台所の生ゴミとそれ以外のゴミをまとめゴミ袋を家の前の道路の脇に置く。それが私の金曜日の日課(週課と言ったほうがいいだろうか)である。

しかし昨日は比較的早めの時間から予定が入っており、全ての予定が終わったのは夕方を過ぎてからだった。

ミーティングやセッションなどの予定はできる限り1日に3つ以上入れないようにしている。予定と予定の間には1時間以上のバッファを設けるようにしているため、実質私が思考および心身のパフォーマンスの高い時間に組めることのできる予定も限られており、その限られた時間の中で、自分自身を世界にどう還元することができるかというのがこのところのテーマでもある。

ありがたいことにここのところコーチングセッションで時間を共にするクライアントも少しずつ増えているが、一人一人と、惰性でなく向き合い続けていくにはこれから新たに時間を共にできる人は限られているだろう。

そのため、最近では法人のプロジェクトにコーチとして参加することを断っているのだが、それが、巡り巡って自分自身ができる還元の度合いを大きくするのだと今は考えている。

コーチングセッションの後は、脳を溶かすような時間が必要になる。クライアントが話すことは自分自身の存在全体を持って関心を向けつつ、あくまで距離を取り続ける。しかし、私の特性上、相手の思考や感情が発露するプロセスをトレースもしくはコピーして、自分の中にも発露させるということを行うため、それをリセットする時間が必要なのだ。

対話は私にとって社会とつながる窓のようなものでもある。対話の相手が身を置く社会における常識や慣習が、ときに、言葉とともに流れ込んでくる。何が流れ込んできているものなのかというのは判別をつけることができるため、自分がそれと一帯になることはほぼないが、それでもやはり、流れ込んできたものを濾過していくような時間が、必要なのだ。

それがなければ私は社会の当たり前と一体になり、当たり前が作り出している限界に鈍感になってしまう。

とは言え、自分自身の中に当たり前や思い込みがないかというとそうではない。まだまだ、これまで生きてきた時間の中で積み重ねられたものがあるし、現在進行形で行なっている学びを通じて、自分が取り込み、固めていっている価値観というものある。それはいつまで経ってもなくなりはしないだろう。ただ、自分を構成するものについてできるだけ自覚的でありたいと思う。

そのためには、脳を溶かすような時間、ぼーっとする時間が欠かせないのだ。

脳を溶かすような時間を過ごすと、情報や記憶はどんどんと薄くなっていく。しかしそこに体験は残る。後になってそこにあった時間がどんなものだったかということが分かることも多い。

中には体験として残ることが薄い時間もある。そのとき自分自身は「頭」でそこにいたのだということが分かる。少しでも自分の中に正しさがあったなら、あっという間に、心や身体よりも頭が優位になってしまうだろう。

正しさは頭で判断するものであり、美しさは心や身体で感じるもの。今はそんな気がしている。

先ほど食べた、チーズトーストのチーズが、なかなか重たく胃に鎮座している。ようやく日が差してきた。脳を弛緩させながらも創造をする。今日はそんな時間が過ごせるだろうか。2020.6.6 Sat 12:54 Den Haag