694. 身体と心と言葉


赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。「もっと感覚が研ぎ澄まされたら、泣き声から、その奥にある欲求に気づくことができるだろうか」ということが浮かんでくる。小さな子どもは、自分の身体感覚の変化や欲求を言葉で表現することはできないが、その代わり、身体全体を持ってダイレクトに表出してくる。原初的な感覚は、身体的な不快感だろう。

大人になり、言葉を得た結果、自分の感覚や欲求を表現できるようになるかというとそうでもない。大人になるその道すがらにおいては表現ができていたときもあったかもしれない。しかし多くの場合、社会での生活を積み重ねるごとに、自分自身の内なるものとの繋がりは断たれてしまうように思う。

言葉は偽る。


本人にそんな気が無くても、心とは裏腹な言葉を口にしているということが往々にしてある。裏腹とまではいかなくても、一般化された言葉を無意識に選択し、口にしている。一般化された言葉は便利だ。他者と「コミュニケーションのようなもの」を一見スムーズに交わすことができる。「ああなるほどね」と共感を得やすいかもしれない。しかし実際には、言葉を発した人が持つ固有の経験や感覚はほとんど伝わってはいない。

なんてことを考え、飲み物を取りに行ったりなんだりしていたらあっという間に意識が別の場所に行ってしまった。子どもたちの泣き声が重なり合って、紫陽花の葉にあたる雨音のように聞こえる。

今日もやりたいことがてんこ盛りである。

言葉と心のつながりの話は、また改めて書いていきたい。2020.6.4 Thr 9:37 Den Haag