692. 軽やかになった髪の毛


一度、書斎の机の前に座り、パソコンを開き日記を書き始めようとしたが、どうも落ち着かず、リビング・寝室・書斎の机、そして棚などを拭き、家中に掃除機をかけた。今は先ほどよりも心が落ち着いている。しかし、数時間後の予定に向けてまた間も無く、意識が前に向かい始めるだろう。日記を書くというのは何気ないことのようでいて、そこに向かおうという意識と意思が必要となる。

身体の感覚がいつもとは少し違うように感じるのは今朝はシャワーを浴びなかったためだろうか。

昨晩、髪の毛の整髪料を落とすためにシャワーを浴びた。それでも昨晩の時点では今朝もシャワーを浴びようと思っていたが、目覚めてみて、どのような違いがあるか検証をしてみたくなった。

これまで、朝のシャワーは身体や意識が目覚める後押しをしてくれていると思ってきた。きっとそうだろう。低血圧の私には、目覚めに向けた刺激が必要だと思っているし、特に冬の朝の、少し冷えた身体にあたる熱い湯の感覚は1日が始まる喜びを後押ししてくれる。一方で、寝覚めに浴びるシャワーは、多少刺激が強すぎるというか、何かストレスになっていることもあるかもしれないとも思う。ドキリとするような音を目覚ましに使わないようにしているが、シャワーも、身体にとっては結構な「ドキリ」に違いない。今この瞬間の身体感覚としては、熱が内にこもってぼんやりとした感覚がある。

昨日は美容院に行った。前に切ったのは3ヶ月前。近所の美容室でカットをしてもらったが、段の全く入っていない毛先がどんどんと重くなっていき、ほぼ髪を結んで過ごしていた。しかし、結ぶとなんとなく頭皮がひっぱられている感じがある。髪の毛の重さ自体も感じる。というわけで「頭を軽くしたい」というのが、今回カットをしようと思った動機だった。

これまで二度ほど近所の美容室に行ったが、髪の毛が多く、欧米の人と髪質も違うためか、残念ながらカット後「キノコ」もしくは「こけし」のようになった髪型に満足できず、今回は日本人の美容師のいる店に行くことにした。

普段、整髪料はつけないが、昨日はせっかくだからとくせ毛を生かすスタイリングにするためにムースをつけてもらった。感覚としての軽やかさはもちろんだが、シャンプーをしたときに手触りの軽やかさにも驚いた。これまで、明確に意識として捉えたことはなかったが、私にとっては軋む髪の毛を洗うときの手触りというのは、決して心地いいものではなく、むしろ不快に近いものだったのだ。それが、するすると指が通る。そしてさっと乾く。

美容院に行く前は「久しぶりに髪を伸ばすのもいいかな」と思っていたが、この手軽さを味わってしまったら、もう戻れない。髪の毛自体が健康的であることに越したことはないが、髪の毛のケアに時間と手間をかけることの優先順位は、私の中ではかなり低い。手間がかからずにおさまる髪型を保つためにはその分定期的に美容室にいく必要があり、オランダにある日本人のいる美容室は現地の美容室の相場の倍くらいかそれ以上に料金がかかるが、毎日の手間と時間と快適さを考えると、それに見合った費用だという気もしてくる。


髪を伸ばそうかと思っていた理由の一つは「髪が長い方が目には見えない世界のものを感じる力が高まる」と言った類のことを目にしたということもあったのだが、髪が長いとその分、いろいろなものを受け取りやすく、私においてそれはときに過剰に起こってしまうため、むしろ、軽やかなくらいがちょうどいいという気がしてきている。

久しぶりに美容院に行く楽しみもあり、顔型や骨格にあった髪型というものを見てあれこれ考えもしたものの、結局のところ髪の毛の質や髪の毛のケアに関する習慣などの違いもあり、「自分に合ったものを見つけるのが良い」という結論に今回髪を切ってみて至っている。

そう思えたのも、量が多くてうねりの多いという悩ましい髪の毛のカットを安心してお願いできる美容師さんに出会えたからだろう。

必要なことにはプロの手を借りつつ小さな気がかりはなるべく減らしていきたい。2020.6.3 Wed 8:56 Den Haag

693. 認識の再構成

隣の家の1階部分の屋根の上に黒猫が丸まっている。黄色い目が、月のように満ちたり欠けたりしている。

昨晩、南西の空に昇った月の光の明るさにベッドの中で目を細めたことを思い出す。月は満月に近づいている。今日もまた、眩しい光が見えるだろうか。

今日は、夕方前に近くのオーガニックスーパーに買い物に行った。夕飯の材料はあったが、天気が良く、外に出たいという気持ちが起こっていた。

オーガニックスーパーでは、顔見知りのスタッフが「コンニチハ」と声をかけてくれる。さらに、「新しい季節はどう?」というような、いつもとは違う言葉を発する。どうやらオランダの人々にとってもここのところ「とてもいい天気」が続いているようだ。心から気持ちが良いと思っていることが満面の笑顔から伝わってくる。スーパーでもケバブ屋さんでも、お店の人は屈託なく話しかけてくる。そこに、店員と客という距離感はない。そんな風にして働いていたらきっとストレスも少ないのだろうなということをいつも感じる。

スーパーのスタッフは、吉本ばななの「キッチン」を読み終わり、今度は「NP」を読むという。どんな話だろうと思って今調べてみると、なかなか重みがありそうだ。彼は、「ミシマ」の本も読むつもりだという。三島由紀夫のことだ。屈託なく笑っているように見える彼の心の奥には何があるのだろうかと知りたくなる。影というと隠されているものというイメージが湧くが、影の部分さえも、あたたかく受け止めているのだろうか。日本の作家の何が心を惹きつけるのか、聞いてみたいものだ。

ここのところ自分の中で「コーチング」というものに対する再構成が始まっていることを感じている。それはここ数年間、ずっと行われてきたものだが、これまでバラバラだったものがつながり始めているという感覚がある。

その中で確信しているのは、「人は土台の状態がととのえば、自然と変化や成長をしていく」ということだ。ビジョンを描くことや目標から逆算をすることの力というのもこれまで感じてはきたが、それでもそれはやはり外的なものを原動力とする前進のように感じている。(それは私自身の価値観の投影かもしれないが。)

自分自身が歳を取り、共に時間を過ごすクライアントの大半が自分よりも年上の人たちということも関係しているだろう。人生の午後に差し掛かったとき、もしくはすでに午後に入っているときに必要なのは、何かを達成しようというビジョンのようなものとはまた違ったものなのではないかという仮説が湧いてきており、それも確信に変わりつつある。

何を成すか、どう評価されるかではなく、魂の欲求のようなものがそれぞれの人にあって、その求めを聴き、日々を過ごすのが人生に充足感をもたらすとともに巡り巡って社会に流れを作り出すのではないかという気がしているのだ。

魂の輝きの流れの中に、自分自身もどう身を置くのか。このテーマについては引き続き考えていきたい。2020.6.3 Wed 19:52 Den Haag