691. 学びを地肉にし、還元していくというプロセス


オレンジがかった光に照らされた中庭を見て、そこに「もう一つの世界がある」と思った。

影の世界だ。

光に照らされていない部分。そして、影が落ちている部分。

そこに佇む暗闇が、静けさをつくりだし、光の部分を一層明るく見せる。

「もう一つ世界がある」と書いたが、「一体である」と表現した方がいいのかもしれない。

いずれにせよ、光の部分だけを見ようとして、そのものの全体を見ることはできない。

光によってできている影も含めて、「全体」なのだ。

今、なぜそんなことを考えているのだろう。

日々向き合う「人」に対しても、同じことを感じているのだろうか。

人は影を隠したがる。それは「光」の自分のセルフイメージに合わないからであったり、影を見ることに苦しさを感じるように思えたりするためだ。

しかしそれではいつまで経っても「光」に満ち溢れた自分がなぜ満たされないのかなぜ苦しさが生まれるのかが分からない。

かと言って、無理やり影の部分をこじ開けようとすることも危険だ。

ゆっくりと安心で安全な場に、自然に様々なものが顔を出してくるように対話の環境をつくるのがコーチとしてできることだろう。「影」と書くと、なんだかそれが暗いものや悪いもののように思えてくるが、そうではない。それは自分の中の「多様性」の一つであって、他のどんなものとも同じように大切なものだ。

昨日は5月のことを振り返り、6月のことに思いを巡らせていた。

5月はたくさんの学びがあった。それを消化し、実践し、構造化し、自分のものにし、そして還元していくことが6月のテーマなのではと考えている。

学びが促成栽培のようなものにならないようにしたい。それが今自分に対して強く思うところだ。

学んだことをどうやって地肉とし、還元していくかについてもう少し考えたい。

多くの学びはまず「情報」という形でやってくる。「こういう事実があります」「こういう考察があります」「こういう主張があります」まず考えたいのは、それを述べている人がどんな背景や思想を元にそう言っているかということだ。場合によっては、その人が身を置く環境や関係性、もしくは経済の構造について検証する必要があるだろう。

例えばネットに溢れるニュースをそこにある収益構造などを抜きに鵜呑みにすると、ただただ情報に踊らされ、消費者となる道をあゆむことになる。一見、「学び」だと思うことについても同じだ。現在は安価で手に入れられる電子書籍やオンライン講座などもあるが、気づいたら高額のセミナー等の勧誘のスパイラルに取り込まれているということもある。商売をすることが悪いことなわけではない。ただ、一つ気をつけることがあるとすると、自分が得るのが知識なのか、それとも能力や実践なのかということだろう。どんなに知識を得てもそれは知識に過ぎず、例えば自分自身の織りなす言葉や思考の世界は変容はしていかないだろう。

「それがどんな背景を元に発せられたものなのか」に目をむけつつ、情報を受け取り、そこから実践の対象とするものを選別していく必要があるだろう。

私が次に行うのは、構造化だ。語られていることそのものに加え、自分がすでに実践していることとの関係性を捉え、構造にしてみる。そのメカニズムを自分なりに説明できるようにしてみる。

その上で、実践をしてみる。実践の手前で一度構造化をしていることによって、実践の際の様々な変数を動かしてみた結果を検証することが行いやすくなる。まず「やってみる」というのもいいが、その前に一度自分の中で理論体系をつくってみた方が、その後、応用をしやすいということを実感している。

もちろん、中には「まず実践してみる」ということもある。実際のところ、精神修養に関連するワークは、その奥にあるメカニズムが説明されていないものも多い。そして、知識として知るのと、実際にやってみるのでは天と地以上の差がある。

そういう意味で、「スキル」を開発するものについては実践の前に自分の中で仮説の構造をつくり、一方「在り方」に関わるようなものは、まずやってみるということをしているかもしれない。この、入り口の取り組み方についてまだ改善の余地はあるだろうけれど、一旦はこのまま、フローを整理していきたい。

構造化、そして体験の先にあるのが、言語化と更なる構造化だ。実際に体験したことを言葉にしていくことで、体験の瞬間には認知していなかったことにも目を向けることができる。そしてそれらをさらに構造として整理していく。

構造化したものを自分以外の人も使えるよう、汎用性を持たせたいと考えているが、多くの場合、体験は自分自身の固有の経験と環境の結果として起こったことであるため、他の人が同じようにして上手くいくかというとそうではない。そのため、汎用性を持たせるためには、前提となる条件まで整理する必要がある。これは自分の中での再現性や応用性を高めていくことにもつながる。

このプロセスにおいて、言語化と共に、できれば図式化・ビジュアル化をしたいという欲求がある。そうすれば構造を捉えやすくなるし、それを人にも伝えやすくなるからだ。

一方で、伝わりやすくなると、「分かった」という気になるということが起こってくる。残念ながら「分かった」は、自ら体験することをそこで止めてしまうということが往々にして起こる。

人に伝えるときは、「分かった」とならず「自分でやってみよう」と思うさじ加減で伝えることが重要だろう。ここで自分の知識や経験をひけらかしたいという気持ちが現れると相手がおなかいっぱいになるほどに知識を伝えてしまうということが起こる。学習者であり実践者であるものが、他者の実践を後押しするというのは、有能であることを手放す必要があるだろう。

そう考えてみると、改めて、お世話になっているコーチの一人は、「対話」というプロセスを通じて絶妙に私の思考と体験の世界が広がることを後押ししてくれているのだということが分かる。

体験したことを言語化し、構造化したら、それをさらに実践していく。木のように、様々な枝葉が伸びていけば、そこで様々な生き物との交流をすることができるようになる。同時に、新たな学びをもとに、新たな構造をつくる。

こうして考えると、学びを自分自身の地肉とし、周囲に還元していくにはやはり時間がかかる。速くできる人というのもいるのかもしれないが、私としてはできるだけゆっくり、歩くはやさで、そこに咲く花々と出会っていきたい。

そんなことをイメージしながら、6月は、学んだものを実践し、言葉と構造にしていく1ヶ月にしたい。2020.6.2 Tue 8:30 Den Haag