687. 暮らしと余白

家の中にも、心の中にも静けさがある。この感覚は久しぶりだ。

使い勝手のいいダイソンの掃除機のおかげで家の中に毎日掃除機をかけることはできているが、次の予定を意識して動くのと、そうでなく、ただ目の前にある空間に目を向けるというのでは結果として心のととのい方が大きく違うということを実感する。

「忙しい」という字は、心を亡くすと書くが、一見忙しくないように見えて、心がそこにいないということは思った以上に起こっているのだろう。

私はコミュニケーションという目には見えないものをサービスとして提供しているが(実際には、コミュニケーションだけでなく、「在り方」そのものを提供していると思っているのだが)、そのサービスの質を上げる土台となるのが暮らしなのだということが掃除をしている最中に、強い実感を持って感じられた。

暮らしがととのっていること。そこに余白と静けさがあること。

その上で、その余白と静けさとともに人と関わることができる。

一人でいても、絶え間ない「実践」がそこにある。

実践に結び付けない学びは消費活動と何ら変わりがない。

本棚を見回すと、先人たちの言葉が綴られた本たちが目に留まる。彼らは、日々向き合うものから、深い気づきと学びを得ていったのだ。

ここまで、見返してみると書いた言葉は僅かだが、私の中では深い呼吸と感覚が生まれている。

そして、深い深い静けさに還ってきた。2020.5.30 Sat 11:13 Den Haag

388. 体験すること、言葉にすること、生きること

風に揺れるチャイムの音に、私自身も揺られていた。

どのくらいそんな時間を過ごしていたのだろうか。

インプットもアウトプットもしない。ただそこにいる時間。ただそこにいることを自分に許す時間。ここ数日、遠ざかっていた時間だ。

ガーデンハウスの屋根から庭を覗き込む黒猫は相変わらず小柄で、さらに今日は何だかその毛並みがツヤツヤして見える。「小柄な黒猫」は、この中庭に一体何匹いるのだろうか。

指先から、バーベーキューをした後のような匂いが漂っている。夕方ににんにくとじゃがいもを炒めたときについたものだろう。来週、久しぶりに美容院に行くが、私の洋服はにんにく臭もしくはカレー臭が染み付いているかもしれない。ひとりで過ごしていると、自分と一体になっているものがどんどんと分からなくなる。

庭の葡萄の蔓が随分と伸び茂っていることに驚く。こんなとき私はいつも「去年の今頃は」と、比較を始める。これはどういう習性なのだろう。去年の今頃と比較して蔓が伸びていたら「伸びている」ということになるのか。それにどんな意味があるだろう。思考を使って比較をするよりも、今ここにある葡萄の蔓をそのままに感じることをしていきたい。そんなものの見方を、この葡萄が教えてくれているのかもしれない。

そういえば、来月が終わると早くも2020年が半分過ぎたということになる。本当にあっという間だ。特に今月はたくさんの学びを行なっている。正直なところ実践が追いついていない。6月以降は、これまでの学びを実践し、さらに統合するという時間にしていくのが良いかもしれない。

どんなにたくさん学びをかき集めても、それを自分自身が実践し、さらに自分の言葉で表現することをしなければ、それは知識として頭に留まり続けるだけだ。むしろ、感覚を詰まらせてしまうかもしれない。

知識が体験となり、自分の言葉となったとき、その質感が変わる。砂利のように荒くて重さがあったものが、絹のように細く軽やかになり、他の糸と美しい布を織り上げていく。そのとき、知識はすっかり自分自身に馴染んだものとなる。そんな状態で綴る言葉は、しっかりと身体に馴染んだものとなっている。

身体に馴染んだ言葉は、すっと人の心にも馴染んでいく。それがまた、誰かの体験を生む。体験に紐づかない言葉は、どんなに積み重ねられても体験を生むことはない。

どれだけ生きられているだろうか。
どれだけ生きた言葉を綴ることができているだろうか。

そんなことを繰り返し考えている。

今日の夜も、そして明日もまた、対話の時間を過ごす。

今の私にとって暮らしの次に大切なもの。

ひとりひとり、ひとつひとつ、向き合うこと。

デジタル空間の中で失われつつあるアナログな時間を、世界の果てから届け続ける。2020.5.30 Sat 20:59 Den Haag