686. バーチャル背景について思うこと

寝室からバルコニーに続く扉を開けると、ひんやりとした風が吹き込んでくる。「今日は涼しいのかな」と思うのとほぼ同時に「まだ太陽が昇りきっていないからか」という考えも湧いてくる。


なぜだか今朝は5時すぎに目が覚めた。それだけ昨晩疲れていたということだろうか。今日の予定は10時からだが、それまでにやろうと思っていることがあり、それには2時間ほど時間がかかるだろうという目算があるので「早めに起きないと」という意識が働いていたのかもしれない。

こうして書斎にやってくる前、「早く予定していることを始めてしまおう」という気持ちがあった。しかし、パソコンを開くと、「こんな静けさの中でいきなりインプットモードになるのはもったいない」ということを思った。

たくさんでなくても、今感じていることを残しておきたい。何を書くというわけではなくても、言葉にしておきたい。そんな感覚がある。

昨晩から残っている違和感がある。「バーチャル背景」についてだ。リモートワークで自宅からオンラインの集まりに参加する人が増えており、その中にはバーチャル背景を設定している人もいる。

私はそれを見るたび、何だかとても違和感を感じていた。今朝、洗い物をしながらそのことを考えているときにふと思った。違和感の出所は、「人間を、見えている物質的な輪郭で切り取ること」だった。

先日、セルフコンパッションの講座のペアワークで米国在住の人と話をしたのだが、そのときに「在り方」もしくは「存在」というものを体感した。自分自身の在り方、そして相手の在り方。それは身体的な輪郭を越えた、もっと大きなものだった。「存在としてそこにいる」というのは、肉体的な身体を越えたものから感じられるのだ。

それを身体の輪郭で切り取ると、「存在」が途中でぶつ切りにされてしまうような、そんな感覚がある。大切なものが伝わり切らない。交わせない。そんな感覚がある。

もちろん、「存在」を伝えるのは視覚情報だけではない。音声の情報のみでも、在り方というのは十分に伝わるのだということを実感している。しかし、視覚情報があると人はどうしてもそちらに意識が向いてしまう。メラビアンの法則からも分かるように、人は視覚情報を優先してしまう性質があるのだ。

それとも「在り方」の力が強ければ、身体の形で切り取られているとしてもそこにあるものは滲み出て、伝わってくるのだろうか。

そしてバーチャル背景を見て「この人は何を隠したいのだろう」と思う心が、存在そのものを受け止めることをやめてしまっているのだろうか。

日本は、画像などを加工して「盛る」ことも盛んである。3Dのアバターなどを介して話ができるようになる日も近いだろう。(ゲームやアニメの世界ではすでにそれが始まっている。)

一見、人が解放されたかのように見えたオンラインの世界でも、すでにかりそめの自分で生きることが始まっているように思えてならない。2020.5.29 Fri 7:45 Den Haag