680. 「人間についての学び」と「暮らしをつくる力」

すっかり茂った葡萄の蔓を見て、小学生のときに育てた朝顔を思い出す。蔓が伸びるという意味では、大きくは同じ種類なのだろうか。そういえば葉っぱの形も朝顔に似ている気がする。

よくみると、蔓の途中にはもう小さなつぶつぶのついた、葉っぱとは違うものが伸び始めている。葡萄の実は秋には色が変わり、収穫の時期を迎えるはずだ。昨年、葡萄の実が成っているということに気づいたのはもっと後秋に近づいてからではなかったか。

もしかすると人は、まずは結果に気づき、そうすると、さらに結果に近いところで起こっていることに気づくようになり、だんだんと結果から離れた「変化の兆し」にも気づくようになるのかもしれない。

自分のアンテナが立っていないことは、視界に入っていたとしても「見た」とは認識されない。そして自分がそれが何か意味付けすることができていないものについても同様に「ある」とは捉えられないだろう。桜の蕾も、それが桜の花になるということを知らなければいつもと変わらず木がそこにあるだけに見えるに違いない。

何がどんな風に変化していくのか、例えば植物であれば理科で習うけれど、多くのことは人は自分の経験を通じて学んでいくことになるだろう。その中でも、自分自身のことや他者のこと、人間全般については言語化や体系化がされないまま個人の体験と認識の元に個々の中に蓄積されていくことが多いように思う。一番身近な「人間」という存在について、学ぶ機会は少ない。割りかし無頓着である。そのくせ、悩みの多くは人間もしくは人間関係についてのことである。

生物として、ミクロな、細胞、さらにはDNAレベルまで分解できる存在としての人間については知識として知る機会はある。また、例えば道徳など、社会規範のようなものについても学ぶ機会はある。しかし、自分自身について学ぶ、向き合うという機会が、義務教育と呼ばれるものの中でどれだけあっただろうか。

もしかすると、「自分」について考えるのは比較的成長をした知性が必要なのかもしれない。確かに、目に見えないものや概念を捉えることは、目に見える具体的なものを捉えることに比べると難しい。それを言語を用いて表現できるようになるのは大学生以降くらいになるのかもしれない。

しかし、それは「頭で理解する」という切り口における話である。理解するその対象としての自分自身を、言葉にならずとも感じたり、表現したり、養っていくことは、理解ができるようになる前から必要なのではないか。

シュタイナー教育の幼稚園には「森の幼稚園」というものがあると聞く。校舎がなく(本当だろうか)、森の中での活動を通して感性を育んでいくというイメージを持っている。確かにドイツに住んでいたときに、郊外の森の近くで森の幼稚園の案内を見たことがあったように思う。自分自身、小さい頃から比較的伸び伸びと育てられた方ではあったが、もしもう一度幼稚園に行くとしたら森の幼稚園に行ってみたい。今からでも行ってみたいくらいだ。

あたたかくなってきて、週末は子どもを自転車の荷台に乗せて走る人を見かけることが多くなった。そういえば先日は平日だったが、男の子と男性がウェットスーツを着て自転車に乗っている姿を見かけた。男性は二枚のサーフボードを抱えていた。

中庭でバーベキューをする様子や、家の手入れをする様子などもよく見かける。オランダの男性は(女性も)、日本に比べると圧倒的に「暮らしをつくる力」が強いという印象だ。「生きる力」と言ってもいい。我が家のオーナーのヤンさんも、家のことはたいてい自分でやってしまう。大きな机まで自分でこしらえてしまう。彼らにとってはそれが当たり前の中で過ごしてきたのだろう。

職場で働くことができない時期というのは、生活する力を養う時期なのではと思う。暮らしに必要なことを自分の手で行うことができたら、そして、それを楽しみとすることができたら、さらに、少しの時間と力を誰かを手助けすることに充てることができたら、多くを稼がなくても幸せに生きていくことができるに違いない。

私自身、「暮らしをつくる力」はほとんど養って来なかったように思う。特に東京では、お金と引き換えに、快適さや満足を手に入れることが当たり前になっていた。オランダでの時間は「暮らしをつくる力」をつける時間でもあるのだろう。「暮らしをつくる力」はきっと、すでにそれぞれの人の中にあるのだとも思う。それを発揮していくだけだ。国境を越えた移動が当分できないのは残念だが、日々の中で、これまでの自分を越えていく機会は多分にあるはずだ。2020.5.25 Mon 8:54 Den Haag

681. 「プレゼンス」という感覚

あたたかさ。

今包まれている感覚をシンプルに表現するなら、そんな言葉になるだろう。

厳密に言葉にしようとするほどに、その感覚からは遠ざかる。

言葉が他のものとの境界線を明確にする文節機能だとすると、文節できない感覚が今ここにあるのだ。

先ほどまで、現在参加しているセルフコンパッションのワークを、米国在住の女性と実践していた。欧州からさらに-7時間。日本とはちょうど逆の位置にあたる人と、空間を超えてつながる。まさにつながっているような感覚のある時間だった。

あたたかさとともに、今、感じているものがある。それが、「プレゼンス」という感覚だ。在り方、もしくは在りようと言ったらいいだろうか。これまで数えきれないほど口にしたことがある言葉だったが、それを「こういうものだ」と強い実感を持って体験したのは初めてだ。自分を包みこむひと回りかふた回り大きな存在が、ここにある。肉体的な身体を超えた「存在」が確かにここにある。そして、私のプロセスを見守ってくれた相手のプレゼンスも、間違いなくそこにあった。それは、オンラインという空間を超越して、確かにそこにあった。

改めてセルフコンパッションと、ダイヤモンドアプローチは非常に近しいアプローチである。今ここにある感覚、そしてそれが変化していくプロセスを味わう。プロセスワークにも近いが、それを言葉によるガイドをもとに、動きではなく、感じることのみによって行う。

30分という短い時間でも深い、深いところにアクセスする感覚があり、とてもパワフルなアプローチだと感じる。

これは、万人に用いることのできるアプローチなのだろうか。身体感覚を細やかに知覚するためには、ベースとして、静けさがそこにあるような、マインドフルな状態が必要だろう。それに加えて、知覚能力そのものも必要になる。さらに、知覚することから距離を置いていくことを行う必要もある。出てきたものをそのままに見つめる、共にあるというのは、曖昧でときに居心地が悪いものを、解釈なしに感じ続けられる力が必要になる。

これらをサポートするのがガイドの役割ということになるだろうか。となるとガイドの側にもある程度、曖昧なものとそのままにいられる能力が必要ということになる。ガイドという立場になることによってその能力が引き上げられるとも言える。

それにしても今回のロバート・ゴンザレス博士によるセルフコンパッションのガイドというのはある種、独特な距離感を持っている。これまでの2回、紹介されてきたプロセスはどれも、瞑想法と言ってもいい。感じていくことをサポートするが、直接問いかけないのだ。問いというのは、相手もしくは感覚など、いずれにしろある特定のものに矢印が向かう。しかしセルフコンパッションのプロセスでは、あくまで、常に並行に、隣にいるという感じだ。

彼の話す英語もとてもコンセプチュアルであり、ある意味日本人には受け取りやすいが、明確に物事を表したい人たちにとっては分かりづらくて、コンテクストを追い続けなければならない、難解な言葉だろう。それは例えるなら禅語のようで、シンプルに思えて深く、柔らかいように思えてしなやかな強さを持っているのだ。

この、身体感覚および内的な感覚をどう現実世界の実践にしようかというのがここのところの専らの考え事である。一旦は、身体感覚にアプローチするプロセスはあくまで自分自身の変容に向けた実践という位置付けにしたものの、そこからの学びはとても大きく、今提供している言語的なアプローチとセットにすると強力な力を発揮するだろうという実感がある。一方で、身体感覚へのアプローチは一見目に見えず、記録にも残しにくいためサービスとして考えたときに訴求および提供のしづらさというのも感じる。ここで生まれる限界は、私が「そう思っている」という認識の生み出す限界だろうか。

私の思考にあるのはあくまで「手法」の話であって、それがどんな価値となるかについては改めて検討していく必要があるだろう。しかし私の中で、「価値」を言葉にしようとすればするほど、それはとても機能的になり、なんだかとても嘘くさくなってしまうというまた別の限界にぶつかる。必要としている人にはきっと届くだろうと思う反面、目の前の課題に目がいっている人に対して分かりやすい提案が必要だろうかということを考えたりもする。

いずれにしろ、今日の大きな気づきは「プレゼンス」がどんなものかということを深い実感を持って体験できたということだ。これを、さらに深いものにする。この存在とともに、いや、この存在であり続ける。自分が今取り組むことは小手先のテクニックを磨くことでも、目先のプロモーションを行うことでもなく、「そこにいる」という在り方そのものであることだ。2020.5.25 Mon 19:31 Den Haag