677.  朝の感覚をなぞって

バルコニーに出るより早く、今日はすでに気温が上がっているということに気づいていた。何気なくクローゼットからシャツを取り出すその瞬間にも、無意識にそこにある空気を感じている。

真冬のどうにもこうにも寒い時期を除いてクライアントとのセッションやミーティングがある日は、白いシャツを着ると決めている。洋服を選ぶことに極力時間も思考も使わずに済むのがいいし、白は心がまっさらになることを後押ししてくれるような感覚がある。願掛けのようなものにも近いかもしれない。必然的にクローゼットには白いシャツが並び、その他の洋服は登場機会が少ない。もともと服をあまり持っていないが、白いシャツを除くと、持っている服の8割は来ていないのではないかと思う。

長袖のオーバーサイズのシャツを羽織りバルコニーに出ると、この時期独特の空間と身体が一体となる感覚を感じた。昇りゆく気温に身体がまだ慣れておらず、肌の表面で熱を発散するための渋滞が起こる。肌の表面の熱と、その外側にある空気に包まれ、身体と自然の境界線は強くなったり、弱くなったりする。

と、後方から、教会の鐘が鳴り始めた。欧州に来て1年目を過ごしたドイツとは違って、この国では教会の鐘が毎時時を知らせるということはない。週末には、教会の鐘の音が鳴り響いている音を聞くことはあるが、そう頻繁ではない。今日のように平日の朝から鐘が鳴るというのは珍しい。

目をつぶって、鐘の音を感じる。11回違う音に聞こえるのは、一瞬一瞬風が動いているからだろうか。

8回目の鐘の音の余韻がなくなるかなくならないかというときに、ポツリと水の感覚を感じた。

今思えばそれを身体のどこで感じたかは分からない。でも確かにどこかで水の粒が身体にあたる感覚を感じ、私はそれを「雨だ」と認識した。

それもあって今日の空気は少し重たかったのか。

室内に戻り、リビングに向かう。表の通りを見る。そうか、今日は金曜だった。さらに通りを見回すと、車道と自転車道の間の僅かなスペースにポツポツとゴミ袋が置いてある様子が見える。どうやら確かに今日は金曜日のようだ。

キッチンにあるゴミをまとめ、家の前のスペースに置く。

部屋に戻りながら、今朝見た夢を思い出そうとするももうそれは記憶の彼方に行ってしまっている。覚えているのは、麻のような素材でできた白いシャツにターメリックを使った料理の汁を飛ばしてしまい、白いシャツを必死で洗ったということくらいだ。なんとなく、気持ち悪さを感じた感覚が残っている。

そうだ、思い出した。好きなYouTubeチャンネルに出ている大学生が登場していたのだ。穏やかで優しい印象の男性だが、夢の中では「実はSっ気が強い」というキャラクターになっていてそんな彼の意外な一面に心惹かれたというシーンがあった。

「優しい人が好きだけど優しいだけでは物足りず、自分を強く持っているところがほどほどにあるほうがいい」というのは昔から変わらない男性に対する好みかもしれない。なんと自分にとって都合がいいことを考えているのだろう。

今になって思うのは、当たり前だが、それぞれの人がそれぞれの優しさを持っているということだ。その表現の仕方は違っても人は基本的にとても純粋な愛の心を持っている。仕事柄色々な人の話を聴く機会があるが、それぞれがそれぞれの人生をあゆみ、それぞれに一生懸命やってきている。そんな中にいると、性善説を信じていいのではないかという気がしてくる。

どんな人も、その人の美しさを持っている。

だから、あとはもう、いつどんな風に出会うかという、タイミングだけなのだ。そしてそのタイミングが、人生を大きく変える。

いや、そう思っているが、意外と人生はどの道を行ってもあまり変わらないのかもしれない。そこにいる自分の意識が変わらなければ。

今日の予定、やりたいこと、やるべきことが頭をよぎり始めた。

今日は昨日撮った写真を大使館に持っていきたいと思っていたが、この雨は止むだろうか。そのときそのとき、できることを積み重ねていくまでだ。2020.5.22 Fri 8:52 Den Haag

678. 夜、今日見た「美しさ」に思う

白い花がしおれたような、かすれた色の花びらが宙を舞う。道路を転がる。

その様子を目にして、美しいと思う。

ここ数日間、何度も見た景色、何度も感じた感覚だ。

私はあの舞い散る花びらに、春に祖国に咲き誇る花を見ている。

「舞い散る」と言っても、実際のところあれが何の花びらかは分からない。花びらなのかさえ分からない。でも私はそこに、無常の美しさを見る。

これはきっと、5月の終わり頃に私が感じる恒例の感覚になるだろう。そうなってほしい。通り過ぎた過去の景色を呼び起こすのではなく、この国での暮らしの上に現れる感覚をもっと増やしていきたい。

強い風が吹いている。風の上を、カモメが悠然と舞う。

今日は結局、雨は朝方にポツポツと降ったキリだった。日が出てきたらパスポートの写真を大使館に持って行こうかと思っていたが、昼過ぎ、開け放っていた窓から入る風がどんどんと冷たくなってきて、出かけるのをやめた。極度の寒がりな私は、外に出て少しでも寒いと「やめておけばよかった」などと思う。一度そんなことがあると、ただでさえ出不精なのがさらに出不精になる。散歩も大好きなのだが、寒さと、寒さを恐れる心には勝てない。そんな特性があるから「気持ちよかった」と思える日に外に出るということは重要だ。気持ちよかったと思えたら、また外に出るのが楽しみになる。

ここ2ヶ月ほど、自分の言葉で発信をすることが増えている。長文を書き連ねることもあれば、ライトな言葉を置いていくこともある。周囲から見ると、それには何か意図があるようにも見えるようだが、私としては「大いなる流れの中に身を置きたい」「循環の一部でありたい」という想いがある。

世界が現在のような状態になって私の生活が特段変わったわけではない。これまで、いつだって先は見えなかったし、いつだって、安定なんてものはなかった。これまでたくさんのものを失ったり、手放したりしてきたけれど、それでもこうして生きているのだから、これからもどうにか生きていけるのだろうと思っている。日々、向き合う人に対して正直であろうと、できることをしているつもりではいる。

そんな中、自分がやり残していることがあるとすると、与えられたものを世界に還していくことだ。特に誰もそんなことは期待していないかもしれない。しかし私は、この世界に、多くの人に、大いなる借りがあるのだ。

それを還そうとする義務感で動いているわけではない。循環の中に身を置くのが、自分にとっては自然なことであり、それがやりたいことだと、それが自分の命を輝かせることだと感じるのだ。

「やりたいこと」というのも、明確な基準があるわけではない。自分ができることで誰かの役に立つことがあるなら、惜しみなくそうしていきたい。ただ、それを約束や義務ではなく、日々心から喜びを感じて取り組んでいくことができたらと思っている。今やっている全てのことの理由を一言で述べるなら「正直にそうしている」ということだ。大切だと思うことに正直に、心が望むことに正直に。

自分の心に正直にあるということは20代後半以降、大切にしてきたことだが、その質感というかそこにある在り方のようなものはその頃とは少し変わったように思う。10年前の私の正直さはもっと、刹那的で衝動的だった。違う言い方をすると、自分の正直さと、他者の幸せは時に(多くの場合)相反するものになるという意識があったように思う。そこにあった正直さは、どちらかというと身体的な感覚と、世界との明確な境界線を元にした正直さだった。今ももちろん身体的な感覚は大事にしているが、そもそもの前提である「自分」というものがもっと曖昧で開けたものになっているように思う。かと言って、何かに妥協したり迎合しているわけではない。世界とゆるやかにつながっている自分が自分であると自然と思えているのだ。

ただこれは、本当に自然に思えているかというと、そうではない部分があるだろう。本当にその感覚と一体になったなら私はそれをわざわざこうして言葉にしないかもしれない。「そうありたい」という少しの憧れのようなものがまだ混ざっているかもしれないが、それでもその感覚は現実のものとして体験している。

向かいの家の屋根の上に備え付けられたポールの先に、カモメの形をしたカイトが揺れている。感謝。生かされているという感覚。安らぎ。あたたかさ。いろいろなものが心と身体を満たしている。2020.5.22 Fri 19:25 Den Haag