670. 学習者と実践者


寝室からバルコニーに出てゆっくりと鼻から息を吸う。これまでよりもずっとたくさんの湿気を含んだ濃い緑の匂いがする。初夏、そんな言葉が浮かび上がる。

この世界の何が昨日と違うのだろう。何がこの感覚の違いをもたらすのだろう。

目に見える世界、計測可能な世界の話で言うと、この世界で、日々確実に変化しているのは太陽の位置だ。1日の中でのミクロな動きがあり、年間を通してのマクロな動きがある。かりに太陽がマクロレベルでミクロな変化をしていないなら(実際には宇宙空間の中で少なからず変化しているだろう)、太陽の動きは決まった関数で表すことができるということになる。それに対して、天気という変数が加わる。ここで言う天気とは雲と風の動きのことにも近い。この中庭にどのくらい太陽の光が差し込んでいるかは、ものすごく単純に言うと太陽の関数に雲の動きの変数を加えた値で決まるだろう。実際には空気中のさまざまな物質の濃度や透過度のようなものも関わっている。雲と風も、原理としては太陽の光の影響を受けている。しかし表面上は、太陽よりももっと複雑に、動的に変化する。そこに予測不可能な変数が含まれている。それは例えば、人間の動きであったり、生産および消費活動で生み出されるものであったり、動物の活動であったり。

それらの変数の影響が全て合わさって、今日のこの庭に光が差し込み、そしてこの匂いが立ち上っている。

こうして考えると、予測不可能な変数が組み合わされているながらも、この景色は計測可能なもののみの影響を受け、出来上がっているようにも見える。しかし、そうではないだろう。目に見えるものだけが全てではなく、それらは目に見えるものと同じくらいにこの世界に存在し、影響を与えあっている。


では、目に見えないものとは何か。それはどのような性質を持っているのか。

その問いに対して「目に見えないものは不可分なのではないか」という考えが浮かんできた。目に見えるものや計測できるものは、その要素を分解することができる。それを極限まで行うと、分子や原子、電子などの存在に行き着くことになる。「分解することができる」というのは、その部分に何かしらの定義を与えることができるということである。

「不可分である」というのはおそらく、目に見えないものによっての必要条件であるが、十分条件ではないだろう。

そして、さらに目に見えないものは「体験するものである」という言葉が浮かんできた。実際には今ここで自分自身が体験しているもの以外にも、目に見えないものは存在しているだろう。しかしひとたびそれを説明しようとすると、私たちが知っている理解可能なものや想像できるものに擬似的に置き換えなければいけないのではないか。そしてそうした時点で、そのものをそのままに言い表すことはできなくなるのではないだろうか。これは現在の私の表現力の限界がもたらす認知なのかもしれない。表現の力が変化すれば、例えば「学ぶこと」と「体験すること」の距離をもっと近づけることができるのだろうか。

「読むだけで体験したのと同じになる」というような言語表現力を持った人がどれだけいるだろうか。少なくとも私の中では本で読んだり学んだりすることと実践すること・体験することの間にはまだ大きな溝がある。これは伝える側と受け取る側双方の持つ力が関係しているが、そこに変化があれば、例えば「読むだけで実際に3年間マネジメント経験をした状態になる本」などというものが生まれたりもするのだろうか。

朝の中庭の様子からどこへ行くともなく思考を巡らせてきたが、ここに来て昨晩考えていた「学習者と研究者と実践者」というテーマに行き着いた。

今、私が社会を通して感じる自分自身の課題は「実践者になれているだろうか」ということだ。さまざまな技術の発展によって私たちは世界中の情報を、言語と時間を超えて入手できるようになった。では、得た情報の中からどれだけの実践を積んでいるだろうか。

良く引き合いに出される例えだが、車の運転の方法を座学で学んで理解しているのと、実際に運転ができるのは全くの別物である。極端に言えば、車の運転ができない人が、車の運転の方法を座学で教えることはできる。(もちろん、車の運転ができない人が教えるのと、できる人が教えるのには、結果として起こることの差があるのだが。)

見回してみると、世間には実際に運転をしたことがないのにそれについて教えていると言う人が増えているのではないだろうか。

コーチングについて言えば「コーチングスキルを学ぶ講座」というのはたくさんある。そしてそれを学ぶと「コーチングが教えられるようになる」のだという。実際、私が勤めていた企業でも、コーチングスキルを学び、11のコーチとしてコーチングを提供するようになるより先かほぼ同時にコーチングスキルを学ぶトレーナーとしてデビューをするという流れがあった。運転ができない人が座学で運転を教えるようなものである。この結果、運転についての知識を得ることにはなるが、実際に運転ができるようになる人がどれだけ出てくるのだろう。

今、オンラインでの学びの機会が増えているが、参加してみると「この人は知識としてそれを知っているようだが、本当にそれを体現しているのだろうか」と感じることがある。これは翻って自分自身への教訓とすべきことでもある。

理論や思想というのは本来、生きた実践や探究の積み重ねの上に生まれるものなのではないだろうか。実際に、私たちにとって新たな考え方を提示してくれるのは、膨大な実務の上に成り立つ研究を行なっている人たちだ。彼らにとっては研究と実務が一体となっている。それがひとたび世にでると、その理論や思想を活用しようとするさらなる実務者が現れる。そしてさらに独自の理論を作っていく。一方で、それを学ぶ学習者というのも多数現れることになる。実践のためにも学習は必要なものである。

しかし、ここで実践はせずに学習だけを積み重ねるという現象が起こる。実践のための学習だったはずのものが、学習そのものが目的となってしまうのだ。そして、学習者であり研究者であるが実践者ではないという人が出てくることになる。

私自身、学習欲が強いので学習についてほぼ目的と手段の境目はなく、学習のプロセスで感じる喜びも大きい。学習者であり研究者であることが悪いことだというわけではない。しかし、学習者から学ぶことができるのは、知識であるということは忘れてはならないだろう。自分が手に入れたいのは知識なのか、実際の体験や能力なのかということもd忘れてはならない。もし自分が実践ができるようになりたいなら、実践ができている人から学ぶ必要があるだろう。

研究者というのは一見、実践者に見える。しかし、実際には、実践者としての研究者である人と、学習者としての研究者である人の二つに分かれるだろう。

久しぶりに読み返した友人の著書の中の「私たちの能力は、具体的な課題を通じて得られた体験を『経験』に変えていく過程の中で高まっていくもの」という一文には、すでに繰り返し線が引かれているが、今回もさらにそこに線を重ねた。

自分が得た学びを実践し、経験にまで昇華することができているか。自分が得た学びの中で他者に共有しようとしていることが、経験を伴ったものになっているか。

学びは楽しい。そこにさらに実践と経験を伴ってこそ、意識の質的変容が起こったり、生命が躍動したりするのではないか。

実践と経験を伴う学びをできているかということを、繰り返し自分自身に問いかけたい。2020.5.19 Tue 10:21 Den Haag

671. カレーづくりから、人間の協働と成長について考える

夕食を終えて、お茶を淹れた。ここ数日は、足先がとても冷えているのでよもぎのお茶を淹れている。一緒にお茶を飲む相手の体調やそのとき過ごしている時間の質感に合わせてお茶を選ぶのが好きだが、残念ながら今はその機会がない。自分のために淹れたお茶を一人で飲むのも悪くはないが、また、お茶を飲みながら友人たちと語り合いたいものだ。(いつになったらそんな日が訪れるのだろうか。)

昨晩は、あまりにも足先の冷えがひどかったので寝る前に足湯をした。そして、足先の冷えの原因について調べてみた。すると運動不足が第一の原因であるという話が出てきた。確かに今の私は明らかに運動不足である。足先にこんなに顕著に影響が出ているということは、思考や感覚にも影響が及んでいる可能性がある。運動不足は運動でしか解消できないのだろうかなどと言うことを考えてもみたりするが、結局は運動をするのが一番いいのだろう。暖かくなってきたし、今度1日予定がない日は近くの森のような公園まで散歩に行くのもいいだろう。

ここ数年、体調不良やできものなどができたときにその原因を調べてみると、大抵「運動不足」か「加齢」と書いてある。年齢は自分の外側についた数字に過ぎないという意識があるが、もう「若さでどうにかなる」という年齢はとっくに過ぎているようだ。現在の生活でストレスはほとんどないはずなので、あとは身体や脳の働きを保つための健康づくりに取り組むのみである。


そういえば今日は昼間、飲み物をつくるために台所に立ったときに身体の軽やかさを感じた。倦怠感などを感じる箇所はないし、身体を動かすと何だかとてもスムーズなのだ。自粛生活の中、甘いものが食べたくなったりお肉が食べたくなったりと多少食生活が乱れた時期もあったが今はだいぶ落ち着いている。


ここのところスパイスを使ったカレーを作っているが、昨日作ったキーマカレーもどきはなかなかの美味しさだった。


昨日は先週購入した人参がしおれかけていたので、それらをみじん切りにしてキーマカレーのレシピでカレーをつくった。キーマカレーの具が、全て人参になったという感じだ。ご飯がわりに蕎麦の実を炊いたが、カレーが出来上がると「これはパンに乗せても美味しそうだぞ」という気がして、木の実の入ったパンに乗せ、さらにその上にチーズをスライスして乗せトースターに入れた。そしてそれが、思いの外美味しいチーズカレーパン(と呼んでいいのだろうか)となった。


「食べ合わせ」という言葉があるが、確かに食べ物は組み合わせによってその味わいが大きく変わる。それは単純な足し算ではなく、組み合わせると、組み合わせたもの自体のレベルが上がり、さらに新しい味わいがもたらされるようなそんな感覚である。


日本では陰陽五行に基づいた食べ合わせという考え方もあるが、それはどちらかというと、機能や偏りを補完し合うような足し算の感覚に近い。機能で見ると足し算なのだが、味わいで見ると単なる足し算以上の、場合によってはイリュージョンと感じるような変化が起こることが興味深い。


これは人間にも言えることだろう。人と人が協働することによって足し算以上のことが起こり、かつそれぞれの人のレベル自体も上昇するようなことがある。

そのための条件というのはあるのだろうか。

一つには、協働する双方が専門領域等によってある程度以上の能力をすでにもっているということが必要だろう。もし仮に片方もしくは一部の人が何か基本的なことをするのに他者の助けが必要な状態もしくは段階だった場合、その人を手助けするために力を使うことが必要になる。まてよ、それによって、能力の発揮が後押しされ、かつ支援する側も普段とは違う何らかの能力を発揮することになるのであれば、それも足し算以上の協働、双方に成長や変化が起こるような協働になるとも言えるのだろうか。


そう考えると「レベルの上昇」や「掛け算」の起こり方にも様々な種類があるのだろう。これは改めて実際に自分と他者の間などでどのようなことが起こっているのかについて検証してみたい。

今のところ、クライアントとのセッションにおいては、私はクライアントの成長もしくは能力の発揮を支援する立場だが、そのプロセスを通じて私自身の成長もしくは能力の発揮も起こっているように思う。実際のところ、双方の能力が発揮もしくは開発されるというのであれば支援者・被支援者という関係はなくなるのかもしれない。例えば子育てにおいて、子どもを育てることを通じて親自身が成長していくように。

そう思うと、今自分がコーチングを始めた当初とは違うテーマやクライアント層とセッションを共にしていきたいという気持ちの理由も納得がいくように思う。クライアントは一人一人違うし、決して「簡単」なテーマがあるわけではないが、例えば企業の中で主体性を発揮することを後押しするために用いられるコーチングは私の中では自分自身の成長の伸び代があまりないように感じ、退屈に思えてくるのだ。

自分自身の成長を第一にするとまた手段と目的が入れ替わってしまうので要注意だが、それでも、適切な課題のレベルを設定するということは必要だろう。そんなことを考えつつも、出会った人ひとりひとりと真っ直ぐに向き合っていきたい。2020.5.19 Tue 19:25 Den Haag