662. 戻ってきた日常、言葉の感覚

 

祈りの言葉を唱え終わると、あたたかい想いが胸から肚へと流れ、ゆっくりとした循環を始めていることを感じた。今日も感謝から1日が始まる。

金曜は週に1度のゴミ出しの日だ。私にとっての現実の中で「1週間が巡ったのだ」ということを知る唯一のタイミングかもしれない。

ゴミ袋を持って玄関の扉を開けると家の前の通りの自転車専用道を自転車が通り抜けていく。左手に顔を向けると、次から次へと自転車を漕いでくる人がいる。ああ、日常が戻ってきたのだ。と、微かな喜びを覚えたことで、自分にとってこの2ヶ月間が「非日常」であったことを知る。冬の間は外出をする機会も多くはなかったし、世界が混乱していても自分自身にとってあまり大きな変化はないだろうと意識の元では考えていたが、やはりどこかでいつもとは違う緊張感のようなものを感じていたのだろう。人々が朝っぱらから自転車をガシガシと漕ぐ様子を見て、生き別れの恋人に再開したようなそんな感覚さえ湧いてくる。嬉しい感覚だが、超低血圧の私にとっては、シャワーを浴びているとは言え起ききらない身体と思考でこの自転車の間に飛び込み、自転車道と車道の間にある50cmほどのスペースにゴミ袋を置くことは心理的負担が大きい。まあこれも、目覚めのための良い刺激という感じだろうか。

白湯を飲んでいる間に、ふと、昨日聴講したセルフコンパッションの講座で出てきた「longing」という言葉が浮かび上がってきた。それは講座内では「憧れ」と訳されており、言語的な訳として正しいのだと思うが、私の中にある「憧れ」という言葉と結びつく感覚とは少し違う質感を示したものなのではないかという気がしている。

日本語で言う「憧れ」は、多くの場合「欠乏」の感覚を伴っているように思う。それは今ここにすでにあるものへの感謝の上に成り立つものではなく、今自分には足りないものがあるという感覚だ。欠乏を埋めようとすることは「欠乏がある」「欠けたものがある」という意識そのものが変化しない限りいつまでも満たされないだろう。そして欠乏を埋めようとすることから始まるコミュニケーションは、他者や自分自身と繋がることを難しくしてしまう。

身体感覚を感じるワークの後、「反応的な痛みと、自分自身の持っている欲求や憧れに共鳴する痛み・自然な痛みの違いは何かという参加者からの質問に講師であるロバート・ゴンザレス博士は「それは、痛みの質感の違いである」と答えた。自分自身の大切なものに共鳴する痛みは、ハートの中で感じることができて甘い痛みであるように心地よさが伴うというのだ。甘い痛み。それは例えば、利己的な愛を覚える前に感じた幼い恋のような感覚にも近いだろうか。欠乏とは違う愛おしさのような感覚を、私たちは誰もが数えきれないほど経験してきているはずだ。それが、評価や比較といった判断軸を覚えるとともに、「満たされていない」という虚構の感覚と置き換えられるようになっていくのだろう。

今はまだ身体感覚と結びついた言葉を見つけることができない「longing」の感覚についてじっくりと味わっていくというのが今回の講座におけるまずもってのテーマかもしれない。2020.5.15 Fri 9:35 De nHaag

663. 人間がそこにいることの意味

 

飛行機が通り過ぎる音がした。それを、隣にある保育園の庭で遊んでいる子どもが目を細めて見上げている。その光景を愛おしいと感じるのは、子どもの遊ぶ遊具がポツンと残されている庭を2ヶ月間眺めてきたからだろう。書斎の扉の向こうからは階下に住むオーナーのヤンさんの口笛も聞こえてくる。

今日は、参加しているセルフコンパッションの講座で紹介されたDyads(ダイアーズ)瞑想という取り組みを、他の参加者とペアで実践した。NVCで言うところのニーズと繋がる、身体感覚を言語化していく取り組みだ。話し手が選んだニーズについての問いかけを聴き手が行い、話し手は身体感覚につながり、そこで起こることや湧いてくることを言葉にしていく。5分間、聴き手は自分自身の存在全体で、相手の存在を聴き続ける。その間聴き手は一言も言葉を発さない。

これはダイヤモンドアプローチで紹介されている取り組みとも重なっている。ダイヤモンドアプローチでは、聴き手が同じ質問を繰り返し問いかける。ダイヤモンドアプローチでは動画の中に質問が繰り返されるパートも含まれており一人でも実践ができるようになっている。

最初に問いを投げかけ、あとはただただ見守り聴いている人の存在というのは話し手にどのような影響を与えるのだろうかということに興味があったが、黙っていても、その在り方は話し手には大きな影響を与えるのだということを実感した。聴き手が話し手の存在とつながろうとすることは話し手が自分自身とつながることの後押しになり、もし聴き手が話し手の存在とつながろうとしていなければ話し手が自分自身とつながるのも難しくなるのだ。

と言っても、聴き手がやっているのは、ただそこにいて相手の話を静かに聴いているだけである。これは何を意味しているか。

自分の存在を持って相手の存在を聴くことができないのであれば、その役割は人間以外の存在が代替することができるということだ。

話し言葉というのは複雑で、特に日本語は主語が消えるとともに、動詞や述語、目的語などの各品詞を自由度高く入れ替えることができるという特徴がある。そのため、人工知能が人間同士が行うのと同じように会話をすることや、コーチングのようなコミュニケーションを行うにはまだ時間がかかるということが予想される。しかし、ダイアーズ瞑想においては最初の質問以外、聴き手は何も言葉を発する必要もなければ、相手が話していることを理解する必要もない。


となると、極端に言えば、全身全霊を持って相手の話を聴いている人の動画の前で話しても良いということになる。それを仮想空間上で再現すれば、人型の画像が話を聴き、それに安心感を感じるということも起こるだろう。人の話を勝手に解釈したり、評価を下しながら聞く相手よりは、黙ってただただ話を聞いてくれるロボットの方がよっぽど安心して話ができるかもしれない。きっとそうだろう。

実際には黙って聴くと言っても、話し手の発するものに対して聴き手には目には見えない様々な反応が起こっている。話し手の話をその内容ではなく、存在として受け止めようとするときのある種独特な聴き方の存在感というのがあるだろう。その存在感を持って人の話を聴くことができないなら、複製可能な画像に聴き手としての役割を取って代わられるということなのだ。

これは、今世の中に急速に起こっているオンライン化に対しても言えることだろう。もうすでに始まっているが、この先、一斉にオンライン化したものの淘汰が急速に起こっていくだろう。なぜなら、毎回繰り返し同じことを教えるだけであれば、録画教材で十分だということになるためだ。リアルの場でやっていたことを何十人にも一気に提供できるようになって良かったと喜ぶのもつかの間、教える側が「何十人に」という意識であるならば、それを受けている側は、その時間にその相手から教えてもらう意味というのがあるのだろうかと考え出すに違いない。リアルな場であれば無意識に行なっていた挨拶やちょっとした会話がなくなり、さらに参加者同士の横のつながりや会話もなくなったとき、コンテンツの内容そのものや講師の教える力そのものが価値ということになる。双方向のコミュニケーションの発生しない一方向の情報発信をライブ配信で行うことの価値があると感じてもらえるのは一掴みの人たちだけだ。

決まったことを教えるということにおいては、そこに人間関係もしくは個別対応のためのコミュニケーションがなくなったとき、「録画でいいのでは」ということになるのだ。そしてオンライン上では類似した内容を教えている人や動画を容易に見つけることができる。これは既にオンラインで教材を販売している人たちにとっては当たり前の話なのだが、にわかに急増した「オンライン講師」たちはこのことを今まさに実感し始めているだろう。

教えることそのものを批判的に見ているわけではない。人々がオンラインの可能性を知った今、変化の波は止めることができないだろうという、自分への警鐘を込めて書いている。自分自身が「これはきっと知るだけで役に立つだろう」ということを知識としてたくさん身につけてきて、今それを、他の人が学びの材料とすることができる形にすることの必要性を感じている。だからここのところ様々な形でアウトプットを行なっているのだが、その形を誤ると、人生の貴重な時間を必要以上にそこに投資してしまうということになる。投資ならまだいい。浪費ということになりかねない。どんなプロセスも学びだとも言うこともできるが、与えられたギフトを何に使うかということには意識を向け続けたい。

全身全霊を持って人と向き合い、そこにあるものに心を澄ます。それが私が命を持って取り組み続けたいことなのだということを改めて実感している。2020.5.15 Fri 18:38

664. 学びとエゴ

 

今日はもう一つ、書き留めておきたいことがある。それが学びとエゴについてだ。ここ数日で私はここ数ヶ月の自分が(もっと長い時間だったかもしれない)学びによって世界との分断を作り出していたということに気づいた。世界との分断を作り出すような意識を持って学んでいたと言った方が正確だろうか。別の言い方をすると自分の中の正しさを強くすることに学びを使っていたとも言える。さらに別の言い方をすると、目的と手段が入れ替わっていたとも言える。

私にとって学びは、自分自身のためのものであり、それは自分の関わるクライアントのためのものでもある。クライアントそれぞれが本来持っている力を発揮することを後押しするためのより良い方法や選択肢を手に入れるために学びを続けてきた。そして学ぶことは、自分が持つ思い込みや考え方の枠組みなど、無自覚になっているものに気づくというプロセスでもあり、無自覚になっていたものを手放すプロセスでもあったのだということを半年くらい前に気づいたように思う。

それなのに。である。気づけば、目的と手段が入れ替わり、手段の方が重要なものとなっていたのだ。自分が学んだ新たなプロセスを試してみることが最も重要な関心ごとになっていたということに気づき、身震いした。何と恐ろしいことだろう。

意識の上では、クライアントの存在そのものと向き合ってきたと思ってきた。しかしそこに手法を手放すことができない自分がいたなら、私は手法の向こう側にクライアントを見ていたということだ。

新たな手法や考え方を学び続けようというのは貢献欲求の表れでもある。その欲求の存在は決して、批判だけを向けるべきものではないとは思う。しかしながら。である。

自分への成長意欲が他者への期待にすり替わっていることに気づかないままどれだけの時間を過ごしていたのだろうか。愚かな自分への自戒を込めて、今、気づいた事実をここに書きなぐっている。

良かれと思って行なっていた学びが自分のエゴを増幅させていたこと、エゴが学びを喰らい、他者との境界を強固なものにしていたこと、本当に、情けなく情けなく情けない。

一方でそれは、その状態が極まったからこそ気づけたこと、辿り着けたことだとも言えるだろう。世界は自分自身の鏡であり、いつもシグナルを発してくれているのだ。

これらのことに気づいたことは私の中で衝撃が大きく、今後いっときこのテーマについて書き続けるかもしれない。建設的な批判と反省は、より良い方向に向けた成長への原動力となることを信じている。2020.5.15 Fri 18:48 Den Haag