659. 学びのパラドックス

 

書斎の壁の向こう、隣の保育所から、微かに子どもたちの鳴き声が聞こえる。今週に入って保育所や小学校、中学校が再開されているのだ。この街に子どもはちゃんといたのだということにホッとする。

昨日買い物に出たとき、人々の顔が心なしか明るく見えた。それは私の心が明るくなっているということだ。玄関を出ると、ちょうど、大通りをはさんで向かいの家の住人が犬の散歩をさせているところだった。黒くて大きな犬を散歩させる男性と、目が合うと手を振り合うようになったのはいつからだろう。おそらく彼はこの2ヶ月ほど、仕事に行くことができていないはずだ。

政府からできるだけ外出はしないようにというお達しが出て以降、あっという間に顔色が悪くなり、腹が出てきた様子を見て、赤の他人ながら気になった。無表情にも近い彼の顔が笑顔に変わる瞬間を見たくて、必要以上に大きく手を振ってみる。それもやはり、そうやって自分を勇気付けていたのだろう。

人は本当に驚くほど不思議と、自分のことは見えない。かけているメガネと一体になり、見えるものが世界だと思っている。しかし見ているのは自分のかけたメガネを通した世界であり、心の風景なのだ。

きっかけが何だったかは思い出せないが、昨日はふと、自分が陥っていたパラドックスに気づいた。自分のために取り組みたいことが、無意識に他者に対しても投影されていたということに気づいたとき、そういうことだったのかと、何だか身体が軽くなったような気がした。

知らず知らずのうちに、人を自分の期待する枠組みに閉じ込めようとしていたのだ。そんなとき、心の中にはその人なりの正義や正しさがある。そしてそれは疑う余地もないと感じる。だからそれが今の自分の価値観における正義や正しさなのだということに気づかない。

窮屈さを感じていた世界が実は自分が作り出したものだったのだと気づき、それを手放したら、驚くほどサラリと世界の見え方が変わった。周囲の人の言動も変わった。それは「変わったように見える」というのが正しいだろう。単に自分自身がすでにそこにあった世界を見ていなかっただけなのだ。

もう少し日記を書き進めたいという気持ちもあるが、一方で、いくつかの物事を整理したいという想いもある。スッキリした状態で、また頭の中にあるいくつかのことを整理し、眺めていきたい。1日、そして1週間という時間の単位の感じ方が以前とは全く違っている。そんなことも深めれば何かが出てくるだろうか。2020.5.14 Thr 10:04 Den Haag

 

660. 自分を世界に開いているか

 

今日も身体が冷えている。そう思って両手を擦り合わせると、右手と左手のあたたかさが違うことに気づく。右手は指の先が随分と冷えている。今日も寝る前に足湯をした方がいいだろうか。月の巡りから、身体が冷えやすい時期ではあるが、それにしても家の中の、この冷んやりとした空気は何だろう。太陽が南中する位置が高くなると、その分家の中に斜めに差し込む日差しは少なくなる。その結果、家の北側にあたるリビング部分があたたまらないのだろうか。

今日は先日開催されたセルフコンパッションの講座の動画を視聴した。これまでセルフコンパッションについては知らなかったが、鎌倉に住む友人が紹介していたことから何かピンと来るものがあり、全5回のオンライン講座に参加を決めたものだった。米国に住む講師が英語で講義を行うものを逐次通訳で訳し、講座が進められていく。

セルフコンパッションは、MVCの考え方を精神修養の実践として発展させたものだと今のところは理解している。そのアプローチと、根底にある哲学はダイヤモンドアプローチとも共通点が多い。取り組みの中心は、今ここの身体感覚を感じること。私たちは常にとめどない流れの中にいるのだという前提はフォーカシングの考え方とも共通している。それは、私が今惹かれているものの共通点でもあるということだろうか。選んだものに共通点があるとついつい「世界はそちらの方向に向かおうとしているのだ」など思うが、実際のところ自分自身の興味がそちらに向かっているということに過ぎない。

セルフコンパッションでは、「レゾナンス」もしくは「レゾネイト」という言葉が参加者の中でしきりに使われ、それは「響いている」「響がある」という意味で用いられていることを理解したが、異口同音に語られる言葉にほどなく違和感を感じ始めた自分がいた。

これまで様々な種類の学びを経験して思うのだが、何かを学ぶと、ともすれば「それを知っている自分は優れている」、そして「それを知らない人は劣っている」という感覚を無意識に身につけることになるとういことを実感している。そこで使われている共通言語と一体になったとき、学びを始める以前の、盲目にも近い状態になっているのではないかという警鐘を自分に鳴らしたくなる。あたかも、自分が新しい考え方を得たような気になっているが、それはこれまで依拠していた先からスライドしていただけで、そこに自分自身の体験と深く結びついた言葉が生まれていなければ本質的には何も変化していないのではないかとさえ思う。血の通わない決まり文句のようなものを使っていないか。今日感じた感覚は、自分自身に対するそういうメッセージなのだろう。

昨日、学ぶことが自分の頑なさを作ってきたのだということにも気づいた。学ぶことと頑なになることは決して比例関係にあるのではなく、学び続けながらも柔らかさやしなやかさを保つということができるはずだが、今の私は、気を許すと自分の欲求を他者に投影するということが無自覚に起こっており要注意である。これは誰しもにおこる人間として自然な現象だとも言えるが、少なくともコミュニケーションという目には見えないものを人との接点に置く職業の人間としては、常に自分が一体となっているものには目を向け続けたい。

向かいの家の家族がリビングで揃って食事を摂る様子がぼんやりと見える。西に傾き始めた日の光は、まだ眩しいほどに明るい。2020.5.14 Thr 18:53 Den Haag

 

661. 「感じる」ということ

ここ数日、毎朝感じていることで書き留めておきたいことがあった。
それは「感じる」ということについてだ。

朝、湯を沸かしている間に、ヨガの太陽礼拝のポーズをゆっくりと行うことが日課になっているが、最近は目を閉じて身体の動きを感じるようにしている。

そうすると思うのだ。「今、一体何を感じているのだろう」と。

一つは筋肉の動きだ。筋肉を主とする、身体を物理的に蘇生しているものたちに何らかの化学反応が起こっており、それを「感じている」というのだと思うのだが、結局それが何を感じているのかさっぱり分からない。

そしてもう一つ、目に見えている身体とは違った何かを感じている。目を閉じていると、物理的な身体がある場所ではないところに間違いなく何かがあることを感じるのだ。例えば胸の前で合わせた手をゆっくりと上に伸ばしていくとき。手と頭の間に明らかに物理的な身体とは違う距離感を感じる。そして目を開けるとあっという間にその感覚は消える。

目には見えない何かを感じているというと不思議だが、私の中では今のところ、目に見えているものを感じるという現象も同じくらい不思議なものに思えている。

何が感じているのか。何を感じているのか。

例えば指先を頬に当てると瞬間的には冷たさを感じる。冷たいのは指先の方なので、ということは頬が指を感じている感覚ということになる。それを理解した上で今度は指先に意識を向けると、冷たさとはまた違った質感であたたかさを感じる。今度は指先が頬のあたたかさを感じているのだ。意識を頬、指、頬、指と動かすとそれに応じて、感じる対象は指、頬、指、頬と入れ替わる。こんなにもすぐに主体と客体が入れ替わるというのは驚きである。では頬と指、どちらも同時に感じようとするとどうなるか。そこにある感覚をまだ純粋に捉えることはできない。あたたかさと冷たさ、ゆらゆらとその間を感覚が行き来する。

感じる対象が自分自身ではない場合、自分はいつも感じる主体の側のように思えるが本当にそうだろうか。例えば壁に手を触れて「壁に感じられている手」を感じることはできるのだろうか。感じようとするとそこで自動的に感じる側に身を置くことになるのか。世界は今私が思うよりももう少しばかり、いやきっとまだずっとずっと複雑なのだろう。

相変わらず右手の指先は冷たい。身体感覚というのが一体何なのかというのはまだもって分からない。とにかく感じ続けること。日々の全ての瞬間がプラクティスなのだという、今日の講義の中で語られた講師の言葉を思い出している。2020.5.14 Thr 19:10 Den Haag