655. 自律的共感

 

太陽礼拝の動きを進めていると、左太ももの外側に感じ慣れない感覚があった。すぐに、一昨日思い立って取り組んだバランスボールのエクササイズの影響だということが思い浮かぶ。昨日は1日何ともなかったのでエクササイズをしたことをすっかり忘れていた。感覚というのは不思議なものだ。一度その存在を認めると、あたかもずっと前からそこにあったかのように身体に馴染む。実はずっとそこにあって、ずっと体験をしていたということなのだろうか。

そんなことを考えるのはここ数日、フォーカシングについての学びを深めているためだろう。欧州に渡る前からフォーカシングには興味を持っていたが、意識下にあるものとつながろうと思ったときに身体感覚へのアクセスは欠かせない入り口であり、かつ強力な後押しとなることを最近改めて実感している。様々なものの「オンライン化」が進む中、身体感覚と如何に繋がり続けるかというのは人類のテーマにもなってくるだろう。昨晩もオンラインで開催されたダイヤモンドアプローチのイベントに参加したが、「How do you feel like?」という言葉が何度も問いかけられていた。私が認識する限り、ダイヤモンドアプローチにおける対話はフォーカシングのそれと非常に近い。私たちは常に、変化し続ける感覚の中にあり、それを感じるということが生命を輝かせることなのだという前提があるように思う。様々な国からの参加者がそれぞれ全く違う課題や悩みを口にするが、そこに問いかけられるのは「今それを感じてみると、どんな風に感じるか」ということだ。

今ここにある感覚をしっかりと感じ、その感覚が意味するものを言葉にすることまでできたなら、不思議なことに人からの共感を得ることは要らなくなる。「自分が感じた」ということで十分なのだ。もちろんそのプロセス寄り添ってくれる人がいれば感覚を感じることは行いやすくなるが、慣れてくるとプロセスを一人で進めることができる。

「共感型○○」という言葉はたまに耳にするが、共感は諸刃の刃でもある。仮に自己共感を行わず、他者からの共感によって自分を満たすことに依存してしまったら、周囲の人はずっと共感を供給し続けなければならない。ある程度大人になったら(できれば子どもの頃から)、「自律的共感」を感じられることは、疲弊せず持続可能な人間関係および成長をつくっていくために重要なのではないだろうか。

それともこれはある程度安心の土台に恵まれている立場だから言えることなのだろうか。しかし、私の経験上、「わかるわかる」というような一般的にイメージされる共感的な言葉を発せずとも、共に感じるということを一心に行おうとすれば、そこに立ち現れる感覚に共感しようともせずとも、相手はそこから必要な学びを手にいれるのだ。意味付けなしにただ共に感じる。そこにその感覚があることをただ認める。これはきっと「共感」ではない言葉で表現した方がいいだろう。日本語空間の中で「共感」が意味するものはあまりに表面的な言葉のやりとりを含んだ広範なものとなっているように思う。

これは「共感」を示すときに行う行為が「スキル」として一人歩きした結果でもあるだろう。共感に限ったことではない。私が身を置いてきた企業社会の中では表面的なスキルを身につけることに重きが置かれる一方で、その根底にある人間観や哲学を養うことにはあまり意識が向けられてこなかったように思う。(今はその状況が少しでも変わっていることを願うばかりだ。)どんなに社会的に高いとされる地位に身を置くようになっても自らの人間哲学を語ることができない大人が多いのではないだろうか。それも、たまたまそういう機会に出会わなかったのだということを願いたい。

人間を、分解可能なもの・部分の集まり・交換可能な労働機械として見る時代は終わりを迎えるはずだ。私たちが人間性を取り戻せるかどうかは、一人一人が日々「いかに感じるか」「いかに生命を表現するか」にかかっているのではないかと思う。2020.5.10 Sun 8:55 Den Haag