654. 「もやっ」の正体

 

身体の中には「空腹」と呼ばれる内臓の感覚と、その少し上に「もやっ」とした感覚がある。これはコミュニケーションのすれ違いを感じているときに起こる特有の感覚だ。「コミュニケーションのすれ違い」というのは大雑把な表現で、もう少し詳しく言うと「そこに人間がいるということを感じられないとき」に感じる「寂しさ」や「むなしさ」のようなものでもある。どんなに言葉を尽くしても相手の真意が伝わってくる気配がなく、自分の真意も伝わらないだろうという無力感にも近い。

コミュニケーションは、言葉の長さではないから不思議だ。

短い言葉で、さらりと心地良い風を感じられるときもあれば、長い言葉でそこにある深い想いを感じることもある。

しかし、本当に「コミュニケーションのすれ違い」など、存在するのだろうか。

私は基本的にコミュニケーションは「受け手がどう感じているか」が重要だと思っている。「伝えたか」ではなく「伝わったか」。伝えることと受け取ること、極論どちらに力を入れるべきかというと受け取ることだろう。性善説に立つならば人はそのときのその人ができる限りの努力を持って「伝えよう」としているのだ。その「できる限り」が、とても雑に見えることもあるけれど、でもやっぱりその人の中では、最善であると考えたものが発せられているという前提を考えることができる。そうすると、受け手がそれをいかに受け取るかが重要ということになる。実際は「双方が大事」という落とし所がいたく全うではある。

だがあえて、どちらかというと、やはりどう受け取るかということなのではないか。「伝え手は、自分が本当に言いたいことを言い表すことができていないかもしれない」という前提のもと、それが何なのかを受け取ろうとする行為。

そこには、受け取ったものを、相手が伝えようとしたことと擦り合わせるプロセスが必要になってくる。

そもそもコミュニケーションは「伝えました」「伝わりました」などという単純なものではないのだ。「受け取ったものを伝える」「伝わってきたものを伝える」というプロセスがあって初めて、「伝えたこと」と「伝わったこと」は歩み寄りを始める。

これを世間では「アクティブリスニング」と呼ぶのだろうか。
「あなたからこんなことが伝わってきましたがどうですか?」

振り返ってみるとコーチングセッションで発するものの半分はこの種のものである。

しかしながら、通常のコミュニケーションの中ではこの部分について丁寧にやりとりをする機会は少ない。一見、非効率的で時間がかかる。

だからこそ、「文化の共有」のようなものが必要になるのだろう。

前提となるものを共有しておけば、その上で言葉のやりとりをすることができる。

これまで私たちはオフィスや教室などで「文化」や「空気」を身体的に感じ取ることができていた。

今はそれができない。それぞれが全く違う環境に身を置く中で何を前提として共有すればいいのだろうか。

身体の中にある感覚をきっかけに、あれやこれやとコミュニケーションについて考えてきた。

今、「もやっ」は、白く薄い雲となって浮き上がろうとしている。内臓の空腹は相変わらずだ。2020.5.9 Sat 10:51 Den Haag