651. 睡蓮の咲く庭のある家で暮らしたあの夏のはじまりを思い出して

 

沸騰したお湯が冷めるのを待つ間、バルコニーに出て中庭を眺めていた。日はすっかり昇り、木々を鮮やかに照らす。同時に、濃い影を作り出す。

一羽のカモメが飛んできて、正面の家の屋根の上に突き出した換気用の煙突の上に留まった。ちょうどカモメの真後ろからその姿を見ることになり、左右の羽がジグザクに折りたたまれていく様子に意識が引かれた。そういえば、鳥が羽を閉じる瞬間というのをこれまで注意して見たことはなかったかもしれない。

中庭の冷たい空気が、ドイツで過ごした欧州で初めての夏のことを思い起こさせる。丘の上にある小さな町が、私が一人で最も長い時間を過ごした場所だ。そういえばあの家にも池があり、睡蓮の花が咲いていた。あの庭の睡蓮は何色だっただろう。

ステップファミリーと暮らすために手に入れた家をゲストハウスにし、色々な国からの旅人を受け入れていたドイツ人のお母さんはどうしているだろう。休みの日に「何もしないわ」と庭の椅子にこしかけてぼーっとしていたように、今もあの庭を見ているだろうか。もしくは、あの家はもう、他の誰かの家に渡ってしまっただろうか。

ドイツで仲良くなったマヤが、結婚相手のスティーブンと一緒に移り住んだのが偶然にもその町だった。いつかまた、あの町に行きたい。そのときは、線路の向こう側に広がる森や、気持ちのいい景色が広がる丘を散歩したい。

昨晩は寝る前に足湯をした。ここのところどうも手先足先が冷えている。湿気が少ないので、外気の温度が上がっていても直射日光が当たっていない家の中はひんやりしていることが多く、それは、快適ではあるのだが、それにしても冷える。夜、布団に入ると足先の冷えが気になっていっとき寝付けないくらいだ。逆に、思考はいつまでも止まらないので頭には血が上っているのだろう。そう考えると、身体の冷えの話というよりも、頭と身体や感覚を使うバランスの話のような気もするが、昨日の私はとにかく足の冷えをどうにかしようとキッチンの脇にある棚に入っていたバケツを洗い、そこに熱々のお湯を溜めたのだった。

最初に入れたお湯が熱すぎたため、お湯が冷めるのを数十分ほど待って足をつけた。手で触るよりもずっと、足を入れたほうがお湯が熱く感じる。それだけ足が冷えているということだろう。本を読みながら足湯を続けると、ほどなくして身体の中があたたかくなっていった。あたたかい血が全身を巡り、内臓まであたたまっていることを感じる。

そういえば、我が家のキッチンの排水管は冷水で洗い物を続けたために油汚れが詰まってしまったが、身体の中も、温度の低い血液が循環することによって老廃物が詰まるということが起こるだろうか。きっとそうだろう。いかに軽やかな循環を作り出すかというのは、身体の中でも外でも重要なことだ。身体の中と外の境目などというものもなかったのだということを、排水管の詰まりの一件から思い出す。

湯船があればゆっくり半身浴をしたいところだが、残念ながらそうはいかないので、しばらく朝晩、足湯を続けてみようかと思う。

今日は満月だ。揺らぎや満ち欠けを自然のものとして受け入れ、あるものをそのままに感じていたい。2020.5.7 Thr 8:05 Den Haag