650. 祖母の死と消えた日記

 

書き終えたばかりの日記が消えた。

バッテリーの残りが50%を超えているのにMacの電源が落ちるということを、これまでに何度か経験していた。

だから、電源が落ちること自体は私の中では珍しいことではない。

打ち合わせやセッションのときは充電をするようにしているし、電源が落ちて実質何かとても困ったということはない。

しかし今日ばかりは、呆然とした。
ポッカリと穴が空いてしまったかのような感覚が心の中にある。

今日私は、祖母の死について書いていた。

今朝目覚めたら、日本にいる母から祖母が亡くなったという知らせが届いていた。

昨日にも一度、容体が急変したものの回復をして画面越しに話すことができたという知らせが届いていた。

祖母は90歳をとおに過ぎていた。

だから祖母が亡くなった知らせは私にとって唐突だったわけでも予想外だったわけでもない。

日本を離れるという時点で、家族や大切な人の死に目に立ち会えないということを選んでいるのだ。

それが自ら選んで海外で暮らすということなのだと思う。

「またね」と言った相手にもう会うことができないかもしれないというのは、日本に暮らしていても同じだ。

だから共に時間を過ごすことができるのであれば、言葉も言葉にならないものの、沈黙も一緒に味わって、ただ共に在るということを大事にしたい。

そんなことを書いた。

それが消えてしまった。

それが消えてしまって呆然とする感覚というのは何なのだろう。

誰かに「そうだね」と言ってほしかったのだろうか。

そうではない。日々書き綴っている日記は、たまたま人が目にすることもあるけれど誰かに反応をしてもらうために書いているわけではない。

ただ、「そんな気持ちが今この瞬間にあったのだ」ということを、残しておきたかったのだ。

言葉が残っていることで、「そんな風に感じた自分がその瞬間にいたのだ」ということを確かめたかったのだ。

では、書いたものが消えてしまったら「その瞬間にそこにいた自分」は消えてしまうのだろうか。

そうではない。

言葉が残っていても、確かに私はそこにいて、祖母のこと、母のこと、最後まで支えてくれた人たちのこと、そして、異国である日突然亡くなってしまった元同僚のことを想っていたのだ。

たとえ、綴った言葉が無くなってしまったとしても、そこに、言葉の手前にあることを感じていたという自分がいたということに違いはない。

それとも、言葉が無くなってしまってあたかもそこにいた私さえもいなくなってしまうように思うというのは、私が、どこか言葉という目に見えるものに依存をして、その奥にあるものを感じ切れていなかったということなのだろうか。

それとも、祖母が亡くなったことに対して本来感じたかった気持ちが、目の前に起こったことをきっかけとして立ち現れてきているということなのだろうか。

真相は分からない。

しかしこの「ぽっかりと穴が空いたような感覚」が何かとても大切なことを教えてくれているように思う。

人との出会いと同じで、自分自身の感覚とも一期一会。

この感覚をしっかりと味わっていたい。2020.5.6 Wed 9:51 Den Haag