648. 鳥の持つ空間とエネルギーの使い方

 

カモメの声が聞こえてきて、空が明るくなり始めたことに気づいた。スマホの画面に表示された時刻は4時を過ぎている。

日本時間の朝8時、オランダのサーマータイム中は25時からのセッションを終えると、いつもすぐには眠りに就くことができない。

それは対話をして頭が活性化していること、そして真夜中のセッションに合わせるために夕方から夜のかけて仮眠をすること、眠れない結果、スマートフォンで本を読んでしまうことなどが関係しているだろう。

夜中のセッションは苦ではないし、周囲が暗い分(部屋の中の明かりも消している)心もいつもよりもさらに静かで、言葉にならないものを感じ取るのには適しているのではと思っている。セッションの質を上げるための取り組みは厭わないし、それ自体に喜びさえ感じる。

しかしながら、翌日の過ごし方を納得したものにできていないことは悩ましい。もともと寝るのは好きだし、長時間の睡眠が必要な体質だが、それにしてもすっかり日が昇った頃の起き出すと、それに合わせていきなりギアを上げないといけないようなそんな感覚になる。冬の、日照時間が短い時期だとあっという間に日が傾き始め、「1日を十分に味わうことができなかった」という残念な気持ちにもなる。それが仕方がないことだと割り切れていない自分がいるのだ。

この、自分を強く律することも、全面的に許すこともできない自分をどうしようと考えようとしたときに、中庭からハリのある鳥の声が聞こえてきた。「カモメよりもずいぶん小さい体だろうに、どうしてこんな声を出せるのだろう」と思ったと同時に、「なぜ私は今この鳥がカモメより小さい体をしていると思ったのだろう」という疑問も湧いてくる。

姿が見えるわけではない。見たことはない。それでも確かにこの声を発している鳥は、小柄なカラスよりもさらに小さいくらいだろうと思うのだ。

音というのは、それが伝わる空間すべての情報を含んでいるとも言える。複数の鳥の声を聞いていれば、この中庭の空間が持つ変数がわかるだろう。それを差し引くと今度は、鳥そのものの身体的な空間が現れる。この響きの中にある空間を、やはり確かに感じているのだ。

このところ、日中、執筆をする量が増えているが、その分、読書の量、日記を執筆する量、絵を描く時間などが減っている。本当はこれに加えて、日記ではなく、詩という形でも言葉を綴りたいという欲求があるのだが、そこに必要な時間も、エネルギーも、心の余白も残らずに1日を終えている。

基本的にはそのときに一番強い欲求に紐づく活動に没頭することを大事にしたいと思っているので、今は言語的な創作活用に時間をかけるときなのだろう。それでもやはり、言語的な創作活動そのものの総量も増やしていきたい。

これは、目の前のことに対する集中の度合いが関係しているのだろうか。知らず知らずのうちに集中が散漫になり、結果としてだらだらと時間をかけることになっていないか。創作だと思っている活動が、消費や浪費になっていないか。

おそらくこの先何十年もこんな時間を過ごしていくのだ。だからこそ、11日に濃縮したエネルギーを注ぎ、生き切りたいと思う。2020.5.3 Sun 12:08 Den Haag

649. 静かな風景

 

焼いたバナナに続いて、自然な甘さのオレンジのジャムを塗ったトーストを食べながら、ぼんやりとリビングに面した表の通りを見ていた。

心の中は静かだ。

この静けさはどこからやってくるのだろう。

そう思うと、窓から見える景色に、文字が含まれていないことに気づく。少し頭の位置を動かせば玄関口につけられた住所の数字や、入居者募集の看板も見えるのだが、それは私にとって記号に過ぎない。それ自体は、何も示さないに等しい。

と、同時に、中庭を見るのが好きな理由が分かった。

中庭には数字さえ存在しない。そこには、意味を示そうとするものは何一つない。ただそこにあるものだけがそこにあるのだ。

だから私は、そこにある自然のエネルギーをそのままに感じることができる。そのエネルギーの循環の一部になることができる。

最近、もし今とは全く違う仕事をするなら(そして、どんな仕事でもすることができるなら)何をしたいかなということを考えていた。

今のところの答えは庭師だ。

自然に踏み出される次の一歩よりもほんの少しずらしたところにそっと置かれた庭石。

それによって、訪れる人は新たな景色を見ることができる。

今はそれを言葉で後押ししている。

やることの本質は今とは変わらない。

そう、私は、言葉が生まれる前の景色を見たいのだ。それができる静かな風景をつくりたいのだ。

自然の中に入って気づくのは、やはり、ただそこにあるものだけがそこにあるということ。

2020.5.3 Sun 12:48 Den Haag