647. 主従関係のない木と、世界の平和

 

庭の角の木に咲く花が体を寄せ合いながら開き、ブーケのようになっている。あれを木と呼んでいのだろうか。周辺にある「木」とは明らかに違う構造である。他の木には「幹」と「枝」がある。しかしあの角の木にはそれがないのだ。根本からいくつもの枝が一斉に手を伸ばす。そこに主従関係はない。改めてまじまじと見つめると、やはりそこにあるエネルギーの流れは他のもののそれとは違うということに気づく。単細胞生物であるアメーバはどこで切ってもそれぞれがまた新しい(と言っていいのかわからないが)アメーバになると言うがそんな感じであの木もどこで切っても、何食わぬかで残った部分が生き続けるだろう。主従関係のある木はただ一つの幹を切ったら全体の生命システムが止まってしまう。

眺めるほどのこの庭は、多様な生命が重なり合い、分けあって生きているのだということを思う。葡萄の蔓からはもう随分と若い黄緑色をした葉が伸び始めている。今年もたくさんの葡萄の実をつけるだろう。


これがSFのような映画なら、人類が滅亡した世界の中で自然がどんどんと息を吹き返すなんてことが起こるのだろうか。今すでにそんなことが起こっているだろう。皮肉にも人間が困惑しているとき、自然界はとても平和なのだ。そして、一つの大きな敵に立ち向かっているとき、世界に争いは起こらない。

この状況は、始まりまであと僅かになっていた第三次世界大戦を止めてくれたのではないかとさえ思う。

仮に今の状況が収まったとしたら、次は宇宙人がやってくるかもしれない。常に大きな敵に立ち向かおうとするとき、人間は平和なのだ。

しかしそれは自分自身を見つめることから目をそらしているとも言える。自分の中に潜む鬼。それは、本当は敵ではない。でも、そこはかとなく恐ろしくて醜い敵に思えるから、その鬼とは向き合いたくないのだ。

世界はいつも、戦うことに忙しくて、静けさの中に留まることはない。

沈黙の中に生まれる微かな言葉を掬い上げることを待ってはくれない。

世界の中に自分が消えてなくなるとき、内と外とが入れ替わり、新しい生がそこに始まるのだろう。2020.5.2 Sat 10:49 Den Haag