646. 自分について思うこと

 

ああ、私は本当に、人間と言葉が好きなのだ。

冷め始めている白湯を飲みながらそんなことを思った。
自分がなぜコーチをしているのか。誰のためにしているのか。

最近、ずっと考えている。

コーチもしくはコーチングという言葉は、何も示していない。

「私は日本人です」というくらい、そこから何の本質も浮かんで来ない。

結局のところ自分は何者なのだろう。

「何者でもない」と言うことはできる。
結局そうなのだと思う。

しかしまだ、そういうには早い。私は思考の果てにも試行の果てにも、そして言葉の果てにもたどり着いていない。

振り返ってみると私は自分自身の「機能」についてずっと考えていた。
何ができるか、何に役立つか。どんな課題を解消することができるのか。

しかし、それについて考えれば考えるほどに、存在そのものが果たしている役割とはかけ離れた、どこか嘘くさいものになってしまうのだ。

自分自身を機能として表現することができるなら、それは例えば自分と同じことができるロボットをつくったときに、生身の人間としての存在価値はなくなってしまうということになるだろう。

今日ここに、血の通った人間として目覚めた者の指名があるはずなのだ。

仮に今の仕事を老いてもなお続けることができるとすると、私は自分より先に生きるクライアントたちの最期を知ることになるだろう。いや、もしかしたら、私のところには最期の知らせというのは来ないかもしれない。私はクライアントが実際に生きる世界には存在しないのだから。

老いた頃には、自分よりも後を生きる人たちともたくさんの時間をともにしているだろうか。彼らは私の死を知ることになるだろうか。

いずれにせよ、人は最後には灰になる。無になる。

どんなに頑張っても、何も残らないのだ。

だからこそ、生きた時間の一部、僅かな時間の中で交わした一瞬の生命の輝きが、何にも代えがたいほどに美しいのだ。

その内容がどんなものでも、その言葉がどんなものでもいい。

確かに今ここにあなたが生きているということを、確かに私はその命の震えを聞いたのだということを伝えたい。2020.5.1 Fri 9:16 Den Haag