637. 知ることと体験すること

庭の植物の一つの、蕾が開き始めた。赤いがくのようなものがほどけ、大きな雨粒のような形の塊が顔を出している。冬の間、カラカラに乾いていたかのように見えた葡萄の蔓からも、どんどんと葉が伸びる。そこに小柄な黒猫がぴょんぴょんと走ってくる。

今朝は、夢の中で大学の図書館にいた。私は日本に一時帰国しており、その際に知人から大学で大人の成長に関する仕事があるから興味はないかと声をかけられ、知人の勤める大学を訪れたのだった。(実際にはその知人は大学に勤めているわけではない。)大学の名前は、「東京○○大学」というようなものだった。

図書館に行く途中、横を歩く老齢にも近い男性が「この棟は他の棟と分離しているから、管理が大変なのだ」ということをぼやいていた。

図書館は天井が高く、エスカレーター脇には様々な種類の雑誌が陳列してあった。専門雑誌などもあるようで「この図書館を使えるだけで、この大学に来る価値はあるかもしれない」などということを考えた。

図書館は、「知」の象徴だろうか。「情報」かもしれない。
今私の頭の中は整理される以前の知でいっぱいである。

これまで学び、実践してきたことを自分なりに体系立てて整理したいと思っているが(そしてそれは書籍を執筆するプロセスでもあるのだが)、次から次に、インプットも増えている。その中には新しく知識を補完するものもあるのだが、既にあるものの後付けとなるようなものも多い。

これではいつまで経っても内なる創造というのは始まらないのではという気がしてきている。いっそ、新しい本は読まない、情報は取り入れないという期間を明確に作ったほうがいいだろうか。数ヶ月、もしくは数年くらいそんな時間を過ごしたらどうなるだろう。

結局のところ知は、経験からやってくる。

その言葉の表現が違うだけであって、本質というのは変わらないし、もしくは自分が本質だと思っていたことがまだまだ浅はかだったということに気づかされることもあるのだけれど、それも現実世界に目を凝らし、体験を続けていたら見えてくるはずだ。

「知る」世界を選ぶか、「体験する」世界を選ぶか。

そう考える私は、今そこに限界があるということに気づく。

どちらかではないのだ。知ることも体験することも、同時に起こるとともに循環している。大事なのは入り口がどちらかということではなく、それを身体全体で感じるとともに自分で言葉にしていくことだろう。「産み」は、そうやって深められていくのだ。

そう思うと、今日という一日がとても短く、儚いものに思えてくる。

とにかく、味わい切るのだ。そして、生み出すのだ。

時間と心とエネルギーと空間。今与えられているスペースに感謝し、今日を営んでいく。2020.4.22 Wed 9:41 Den Haag