635. 死の匂い

沈もうとする日が、ガーデンハウスの屋根を金色に照らす。梨の木の枝からはほとんどの花弁が落ち、さらに、花を支えていた花托(かたく)と花柄(かへい)がぽとぽとと落ちる。人は、花弁が散ってそれで一つの季節が終わったかと思うが、そうではないのだ。私たちが気にも留めない、小さな息吹が、日々生まれ、日々散っている。

今日は、昼過ぎに散歩でに出かけた後、日の差し込むバルコニーで読書をした。静かな言葉に出会いたい。そう思って書斎の棚を眺めたときに視線を掴んだのは森有正さんの『思索と経験をめぐって』。オランダに住む友人が以前薦めてくれたものだ。

時は容赦無く過ぎて行く。日本も、フランスも、世界も変化した。自分も変化した。ただ、ぼくはフランスにいる。しかもフランス人ではない。日本人だ。そういうぼくにとって、こういう内外の変化は、一種の予想しなかった経験の構造をぼくの中に露わにし始めだ。 森有正著『思索と経験をめぐって』より

そう、世界はこれまでも、何度も大きく変化してきたのだ。そしてその変化はそこにいる人間の存在を揺らす。中でも、外国人として異国にいて依るところのない人間は、自分という存在を帰属するもので定義することの危うさに直面する。

母国を離れるというのは一つの「死」なのだということを最近つくづく実感している。以前、この本を紹介してくれた友人と、数年間だけ海外に住む予定の人や企業内の人事で海外に来た人と、自らの選択の元、海外に来た人ではそこでの在り方が違うというような話をしたことがあった。

改めてそれは、「死」を迎えているかどうかなのだと思う。日本に戻る場所がある。そんな状態では、どんなに日本から離れた場所に身を置いても、「死」を迎えることはないだろう。死とはすなわち、自分が身を置く物理的な場所や立場・役割、そして関係性を失うこと、つまりはアイデンティティの喪失である。

企業で定年を迎えた人が家庭や地域で自分の居場所を見つけられず鬱になってしまうということが少なくないと聞くが、それは、それまでの間、幸か不幸か自己の存在を揺らがすようなアイデンティティの喪失をしたことがなかったのだろう。

社会に規定される「自己」とは、結局のところ自分の想像の産物であって、虚構であって、そもそも存在などしないのだ。社会的な死を経てもなおも肉体は生きていて、自分の存在の根幹であると思っていたアイデンティティが崩壊してもなお、やはり肉体は生きているということを経験したとき、人は初めて、「生きる」ということが、ただそこに「在る」ということなのだということに気づく。そして肉体も含めた死に争うことが、いかに滑稽なことかということに気づく。そして、その滑稽さと自分の無力さを感じながら、それでも生きていこうとするときに、はじめて生命が本来の輝きを放ち始める。

全てを手放し、明け渡したときに、全てが一つになる。

手に入れようともがく人にとって、これは皮肉なことだろう。

全てがすでに「在る」と気づいたときに、何に美しさを見出すのか。

今私は、そんなものに出会いたくて自分や他者と向き合い続けているのかもしれない。

命の躍動に出会いたいのだ。
燃える魂を見たいのだ。

アイデンティティの死の匂いさえも美しいと思うことを、世間では狂気と呼ぶのだろうか。2020.19 Sun 18:42 Den Haag