633. 表現を見守るということ

 

バルコニーに続く窓を開ける前から、ガーデンハウスの屋根の上にいる黒猫がこちらを見ていた。彼もしくは彼女の目にはどんな風に世界が映り、彼の耳にはどんな音が聞こえているのだろう。もし一つ魔法が使えるとしたら、猫として世界を体験してみたい。

西の方角から、しゃんしゃんと歩いてくる黒猫を見ると、お腹が少し垂れているようにも見える。あの猫は雌だったのだろうか。運動不足でお腹が垂れているということはあるまい。ガーデンハウスで見かける他の猫よりも小柄な黒猫のことをずっと「子どもだ」と思っていたけれど、猫で言う「子ども」の時期は、数ヶ月ほどで終わるのかもしれない。

3つ下の妹が出産をしたときは、「自分も随分と歳を取ったんだなあ」と思ったものだ。人はいつも、世界を通して自分の姿や変化を知る。世界は自分の鏡だと気づいたとき、そこに絶対的な存在としての悪など存在せず、すべては一つなのだということが分かる。

妹の息子、私の甥っ子は来年小学生になる。本人の希望でピアノを習い始めたということを今日妹とのメッセージのやりとりで知った。しかし、この状況で、次のレッスンがいつできるか分からないという。

実は随分前からすでにピアノのオンラインレッスンというものがあったということを私も欧州に来てから知った。リアルな場でしか習ったことのない身としては「どうやってやるんだろう」という感じだが、意外とオンラインでもレッスンができてしまうようだ。何事も慣習のようなものの中にあり、そしてそれは変えることができる。

せっかくやる気があるのであれば大いに練習をしたいだろうし、そこにはついつい口を出してしまう家族ではなく違う立場で聞いてくれる人がいるといいだろうと思い、早速オンラインでできるピアノのレッスンを紹介した。そして同時に「私が聞いてみたらどうなるだろう」という興味も湧いてきた。ピアノは小さい頃から習っていたものの、教えることはできない。ピアノに限らず、そもそも何かを人に教えるということにはあまり興味がない。しかし、本人がやる気なのであれば、自分で力をつけていくことを後押しすることはできるのではないか。とは言え、全く教えないということは、ピアノのように一見技術が必要なものについては難しいように思う。しかし本当にそうだろうか。以前、甥っ子と遊んだときに、私が何気なくしていた身体の動きを彼がすぐに真似をしていたことがあり驚いたことがあった。よく見ているのだ。そしてそれを真似ることができるのだ。もし仮にYouTubeなどで、今のレベルにあった手の動きを見ることができたら、あとは、「もっとやってみよう」という意欲を少しだけ後押しするだけで自分で学びを行なっていくことができるのではないか。

オランダにもあるイエナプランの小学校では自分で時間割を決め、自分で勉強していくという。イエナプラン教育の研修に参加した教員の友人の話を聞く限り、「一方的に教えられる」という時間はほぼないに等しいのではないかと想像している。遊びと学びと対話、そして催し。その4つの要素がイエナプランを構成しているということだ。そしてその学びは、自発的に行われるものである。

たとえ小さな子どもであっても、自ら次の一歩を出していく力というのはあるはずだ。いや、その塊のような存在である。そして同時に、おそらく今は、言語よりも身体感覚を優先させた方が良い時期だろう。そこにある炎をただただ見守るということで、彼はのびのびと表現を続けるのではないか。他人の子なので、そんな悠長なことを考えていられるのかもしれないが、そんな取り組みをやってみたいという気持ちが湧いてきている。2020.4.18 Sat 10:27 Den Haag

634. 光のダンス

 

午前中に降り始めた雨は気づけば止んでいたが、中庭の彩りを深くするというお土産を残していった。数日前に小さな芽をいっぱいにつけていた中庭の木の枝は、勢いよく開く若草色の葉っぱをどっさり抱えている。梨の木の向こう側、向かいの家の庭にある、若々しい木も、数日前に開き始めた白い小さな花を差し出している。

こんなにも自然は日々変化していくのだということに驚かされる。

今日は久しぶりにパステルで絵を描いた。

二ヶ月ほど前に描いた、「協働者とわたし」「パートナーとわたし」の絵をアップデートするためだ。前回、「協働者とわたし」については時間軸を含めた形で描いたが、今回はもっと直接的な関係性を表現してみようと思った。前回、比較的シンプルな構造だったので、それをより、複雑な構造として捉える目で見てみるとということを想定していたが、構造そのものを捉え直したときに湧いてくる気づきがあり、絵としては複雑ではないが、ここには含まれていない世界観を含めると、前回よりも複雑な構造になったのではと思う。

描き始めた当初は、「中央に協働者とわたしの接点を置こう」という考えだけが浮かんでいた。協働者は様々な色を内包した立体のようなものでありそこにわたしが光を当てる。そうすると、協働者の中にある、色が、世界に投影される。描きながらそんなイメージが膨らんでいった。そしてこれは、繰り返しの構造になり、円環のような形になっているのだということが途中で分かった。協働者の先には、また協働者が照らす相手がいて、その先にはまたその企業もしくは個人が照らす相手がいる。「相手が輝くこと」を後押しする光が、巡り巡ってわたしのところに戻ってくる。そう、わたし自身もそうして誰かに照らされているのだ。今画用紙の上に描かれているのはその結節点の一つにすぎない。

前回は協働者とわたしの間に新たな色が出来ているような絵を描いたが、今回は、自分の色と協働者の色は分けた。直接的には見えないが、「光が出ている」という構造そのものに、わたしが含まれているため、あえて色として表現する必要はないのだと今回は思った。

協働者とわたしの間には、物理的な境目はあるが、エネルギーとしての境目はない。わたしは「照らす」存在でありながらも同時に照らされている。エネルギーの交換が常に行われ、動的平衡が保たれている。保たれながらも、ダイナミックにその接点が踊る。そんなイメージだ。

これは私の中で「うまく協働できているとき」のイメージだ。協働がうまくいっていないと、エネルギーの行き来に偏りができ、動的平衡が保たれなくなる。一方向にだけ流れ込む。それは私に取ってはあまり具合が良くない。関係性としては成り立つのだ。だけれども、私がイメージする「自然の一部」としての呼吸のような状態ではなく、人工物が接着剤でくっつけられているような、マニキュアの塗られた指のような、とにかく息苦しい状態だ。

大きな循環の一部であると分かったとき、与える・与えられるという関係もそこには存在しなくなる。ただ流れがあるだけ。木の枝にふわりと鳥が止まるような、風が吹いて花びらが舞うような、ただ、起こっていることがそこにある。

シンプルで、自然で、大きくて、小さい。そんな関係がそこにはある。

「パートナーとわたし」は、前回瞬間を切り取ったものだったので、今回はそこに時間を加えてみた。赤と青。それぞれ一本の線を引き、線が動きたがる方向に色を重ねていく。新しく引かれた線を感じ、また次の線を引く。どちらもそれぞれの躍動を続ける。

最終的にはどちらも白になったが、私にとって白は「すべての色を含んだ光」であって、二つの白は同じ白ではない。二次元の中では、白が重なっている部分があるが、三次元的に見ると、空間上の同じ点を通っているわけではない。

「感じながら変化する」

今の私にとってパートナーシップとは、そんな風に、自由で、やはり動的なものだ。同じ色になるわけでも、リズムを合わせるわけでもない。ただそれぞれが、お互いを感じながら、美しいと感じる踊りを踊る。それは私がこれまでイメージしてきたパートナーシップよりずっと軽やかなものだ。

全く違うけれども、そこに描かれる弧を美しいと感じる。だから、その存在を感じながらお互いに踊り続けることができるのだろう。

以前描いたものと比べて、もちろん表面的な違いはあるが、構造としての決定的な違いは何だろうと考えてみると「線がハッキリ引かれていること」「その結果として面がハッキリと現れていること」だと気づく。前回のものは粉上にしたパステルを指で塗ったために輪郭がぼんやりしたものだったが、今回は、右手で線を引き、左手でぼかすということを繰り返しているため、結果として線と面(もしくは立体)がハッキリしている。

数ヶ月前の私は、「わたし」についての線を引くことができなかったのだ。線を引くというのはそこに明確な境界をつくること。もしくは明確な形を浮き立たせること。それを私は、「世界の分断」もしくは「停止」だと捉えていたのだろう。だから、線を引き、瞬間もしくは空間を切り取ることに抵抗があった。

「一度形を決めてしまったものは、その形に規定される」という恐れがあったのだと思う。「一度境界が決まったらそこからは何も生まれなくなる」そんなことを考えていたのかもしれない。

自分を規定しないことには、それを動かすことも壊すこともできない。お互いを規定しなければ本当に出会うこともない。

線を引くことは、ただの始まりであって、引いた瞬間に線は生き物になり、踊り出すということを、今は実感している。だからどんなに濃い色の線でも引くことができる。

最初にハッキリとした線を引いたとしても、そこに、与えられるリズムを送り込むことはできる。

自ら強い光を発することと、流れに身をまかせること。それらは相反することではなく、美しい、他者との関わりのダンスと循環を作り出すのだということを今日の二枚の絵から学んでいる。2020.4.18 18:12 Den Haag

協働者とわたし
パートナーとわたし