630. 「わたし」を眺める「私」の夢

 

伸び始めた葡萄の葉の横がキラリと揺れる。クモが光の橋を架けたようだ。

一つ、二つ、三つ中庭には両手でも収まりきれないくらいの種類の花が咲く。その美しい花の色を言葉にしたいと思うが、自分が知っている言葉、あるいは色の名前で形容することが、あまりに陳腐なことにも思えてくる。名前をつけた瞬間に、それは私が意識で切り取った世界になってしまうだろう。そうではなくて、ここにあるのは一つ一つの命の輝き。これを表現できる「美しい」以外の言葉を知らない自分が情けなく思うし、それで良かったとも思う。この美しさを、どうしたらあの人に伝えることができるだろうか。

ガーデンハウスの屋根の上を、小柄な黒猫がそろりそろりと歩く。

庭とは反対側、表の通りからは珍しく犬の鳴き声が聞こえる。

そういえばオランダではあまり犬が吠えるのを見たことがない。運河の横を、森のような公園の中を、リードなしで悠然と歩く犬たちは、他の犬と出会っても静かに鼻を寄せ合い挨拶を交わす。

ドイツの犬もリードなしでのびのびと散歩をしていたけれど、オランダの犬の雰囲気はまた少し違う。それは私がドイツ人とオランダ人の気質の違いを犬に重ねて見ているからだろうか。

今朝は心地悪い夢を見た。今記憶に残っているのは、その大まかな構造と気持ち悪さの感覚だけだ。

夢の中で私は、三人称の視点として存在していた。「わたし」らしき人物がいる。その「わたし」を横から見ていた。そして視点としての存在の「私」には、身体の存在がなかった。

夢の中の「わたし」は小学校中学年くらいの女の子の動向を気にしていた。女の子が、他の人を殺めようとしているのだ。「わたし」はあの手この手でそれを防ごうとする。女の子はそれをすり抜ける。

目覚める前から、女の子も「わたし」も、どちらも自分なのだということが分かっていた。そして女の子が殺めようとしている他者は、女の子自身を投影しているのだということも。自分を殺めようとする子どものわたしと、それを防ごうとする大人のわたし。それを眺めるわたし。

夢から覚めた直後は、感じる心地悪さは「自分を投影した他者を殺めようとしている女の子」の存在からくるものだと思っていた。しかし今思い返すとそうではないのかもしれない。それを防ごうとする大人のわたし。「他者(自分)を殺めることが悪だ」とするその考えを頑なに考えない「わたし」が気持ち悪かったのだ。

自分の経験から来るレンズで世界を見ようとしている。この夢はそんな自分への警告なのかもしれないし、自分が身を置く世界の縮図なのかもしれない。

今私は、どの「わたし」で世界を見ているのだろう。今のわたしを、もう一人の「わたし」が、横から見守っているのだろうか。2020.4.15 Wed 9:07 Den Haag