631. 世界を聴くこと、観ること

 

バルコニーに出ると、それまでは聞こえなかった音が聞こえてきた。目を閉じて、耳を澄ます。風のようだが、間も無くそれが、車の音だということが分かる。絶え間なく車が道路を走る音。こんなにも人工的な音に囲まれていたということを今まで気づいていなかったことに驚く。そして、静かだと思っている世界にも、こんなにも車が行き来しているということにも驚く。人間の活動は止まってはいないということに半分はホッとし、半分はそれが恐ろしくも感じる。

もし、人のいない世界に降り立ったとしたら、それは何から気づくだろう。「人がいない」ということを証明することは難しい。「いる」というただ一つの例が見つかる可能性を否定しなければならないのだから。例えば自分がもともと人の少ない場所にいたら、見た目だけでは判断が難しい。しかしきっと、いつもとは違う世界にいることに気づくだろう。その恐ろしいほど平和な静けさから。

多くの人は「音のない世界」というのを体験したことがないだろう。もしくは「自然の音」だけの世界さえない体験したことがないことがほとんどだ。

転職が決まり、東京で家探しをしたときに気になったのが音だった。どこにいっても工事の音か高速道路の音か、電車の音が聞こえる。「こんな騒々しい中で暮らしていけるだろうか」と不安にも思ったが、いざ暮らし始めると、そこに音があることをあっという間に忘れてしまっていた。音は無くなったわけではない。感じなくなったのだ。感じていないわけではない。しかし、意識として認識しなくなったのだ。

こうして考えると、「耳を澄ませばもっと色々な音が聞こえてくる」と思っていたが、見えているものについても同じなのかもしれない。どんなに美しい音も聞き慣れれば聞こえなくなるように、どんなに美しいものも、そこにあることに気づかなくなる。

この世に生まれたってからしばらくの間は、世界が輝いて見えていたはずだ。意識の上で美しさや輝きを認識できるようになるのは少し後になってからかもしれないが、見るもの全てが、ただそこにあり、それに対して心が踊る。そんな体験をしていたはずだ。

それがいつからか、善悪を覚え、正誤を覚え、優劣を覚え。世界は文節され、分断されていった。

全てを感じることには不都合があるかもしれない。ストレスが増えるかもしれない。

でも本当にそうだろうか。物事に意味付けをする前の自分にもはや戻ることはできないが、成長がスパイラルのように渦巻くものだとすると、意味付けのある世界をもって、意味付けのない世界を見ることもできるはずだ。そしてそこには、今頭の中で描く概念や感覚とは違ったものがあるのはないか。

聴くこと、観ること、感じること。その実践を日々積み重ねていったときに視えた世界をまたここに綴り、今日のこの日記を書いた自分がどういう世界を見ていたかについてもまたいつの日か思いを馳せたい。2020.4.14 9:16 Den Haag