623. 分断された世界に音楽を

 

書斎の机でパソコンを開くと、窓の外に、足先の白い黒猫が見えた。隣家の1階の屋根の上に丸まっている。こちらに気づいたのか、金色の目をまん丸に見開く。視線を外したかと思うと、ゴロンゴロンと、屋根の上で転がる。背中に、屋根に散っている白い梨の花びらがくっつく。

もしもこのまま遠方への外出ができない時間がずっと続くなら、猫と暮らしてもいいかもしれない。また冬が来て、日が短くなったとしても、猫がいれば家の中でも毎日あたたかく幸せな気持ちで暮らせるだろう。そんなことを考える。

猫がいない今はそんなに幸せではないかというとそういうわけでもない。人はいつもないものねだりなのだろう。今の暮らしは十分に満ち足りているということを日々実感している。

実際に多くの人的・社会的・経済的被害が出ていることを考えると、今の状況というのは早く終息するに越したことはない。しかしそれで、世界が平和になるかというとそうでもないかもしれない。国家を越えてウイルス発生と拡大の責任の追求が始まれば、国と国とが戦争を始めることになりかねない。今は落ち着いているという各地の紛争もまた再び激しくなるかもしれない。

身近な大切な人との時間が持てなくなるという大きな危機がなければ、人は、見知らぬ人との争いを始めてしまうのだ。

昨日は2月から参加しているダイヤモンドアプローチのオンラインコースの動画を観た。英語なので動画を観るだけではわからないことも多いが、前回から英語のスクリプトが添付されるようになり、内容がより深く分かるようになってきた。

今月のテーマは、「Red Dragon」、自分の中にある真の強さを見つけるという内容だ。真の強さは、恐れの下にあるという。ボレロを聴きながらの音楽瞑想は、私にとってとても新鮮な体験だった。

何だろう、自分が空間に溶けていくような、心と一体になった感覚だけがそこに存在しているような、そんな感覚だった。そしてボレロが終わった後、自分の中にある静けさが相対的に浮き上がってきた。この静けさがあれば大丈夫だ。そんな気がした。

これまで紹介された、Sensing、Opennessの瞑想と併せて、この音楽瞑想を今月続けてみたい。何事も、継続であるというのが、最近の思うところだ。

ダイヤモンドアプローチのオンラインコースでは特に「世界の分断」の話が取り上げられている。 「Spirituality in a Fractured World 」というのが、本コースのテーマでもある。

人が如何に、二極化をし、分断をしていくか。自分のアイデンティティを確立しようとすることによって何が起こるか。これはケン・ウィルバーの書籍の『無境界』で扱われている内容にも重なるところがある。

自分自身を振り返って、会社員を辞めて以降、この7年ほどで世界の捉え方が変化してきているという実感があるが、それはまだまだ途上であるという実感もある。意識の成長に終わりはないのだろう。10年後、20年後、世界がどんな風に見えているのか、今は想像もつかないが、想像もつかなかった世界を見るのが楽しみでもある。

できるだけゆっくり。ゆっくりゆっくり。今を味わうことを続けていきたい。2020.4.8 Wed 9:45 Den Haag

624. 空間を飛び越える躍動

舞い落ちた花びらで埋め尽くされそうになっている庭を見て「砂時計のようだ」と思った。そしてこの「砂時計のようだ」と思った感覚はこれまでもどこかで感じたことがあるということも同時に浮かんできた。しかしそれが、いつ、どこで、何に対してだったかは思い出せない。

思い出せないけれど間違いなく、自然がゆっくりと移り変わる様を見て「砂時計のようだ」と思ったことがあるのだ。そのときに大きな衝撃を受けた感覚があるのでそれを覚えているのだが、今もまたとても新鮮に「砂時計のようだ」と思えた自分を嬉しく思った。

毎日を新鮮な目で見つめる黒猫師匠の感覚に少しは近づけているだろうか。

今日は自分のコーチとのコーチングセッションだった。私は今、全くタイプの違う二人のコーチに定期的にセッションをお願いしているが、セッションを通じて自分自身と深く向き合う時間が取れていることは本当にありがたい。

今、世界が混乱に満ちた状況であってもその中で心静かに毎日を過ごすことができているのは、自分の中の大切なものと繋がり続け、何に目を向ければ良いのかがしっかりと分かっているからだろう。

特に身体感覚を通じて自分自身と一体になることのパワフルさというのを実感しており、私もクライアントに対するセッションで、もっと身体感覚へのアプローチを増やしていきたいと思っている。

自分自身の在り方、そしてそこからアウトプットするものの質が、自分を取り巻く世界や自分に還ってくるものとして現れる。同じ状況のもとにあっても世界の見え方、感じ方が全く違うのだということは、今のような状況においては特に実感するところだ。

砂時計の砂は、常に落ち続けている。そして私たちの目の前に広がる世界では、砂時計のようにひっくり返して、時間を巻き戻すこともできない。

私たちは常に、砂時計の一番細いところを通る、一粒の砂の感覚を味わうことしかできないのだ。

昨日、興味深い記事を見つけた。アメリカでは銃に打たれたときによっぽどの致命傷でないと人が死ぬことはないが、日本ではそうでなくとも死に至る人が多いという話だ。真偽のほどは分からないが、陸上の100mで、ある選手がそれまで難しいとされていた10秒の壁を超えたところ、瞬く間に他にも10秒を切る選手が現れたというのは有名な話であり、限界は人の意識が作っているということを実生活の中でも実感することはある。(私はスプーン曲げができるが、曲げられないのも「できない」「曲げてはいけない」という意識が作り出しているもので、自分の思い込みを外せばスプーンは容易に曲げることができる)

自分が作り出す限界の中で、恐れや不安とともに生きるのか、作り出していた限界の外に出るのか。私たちは自ら選ぶことができる。

先ほど、オランダに住む友人の日記を読もうとウェブサイトを訪問したら鮮やかな色が目に飛び込んできた。新たに購入したiPadで描いたものだろう。昨日「ツルツルの画面では失われてしまう質感がある」ということを考えていたばかりだったが、どうやらデジタル画面で表現することのできる質感はどんどんと進化しているようだ。そこに人の命の躍動を込めることもきっとできるだろう。

今のところウイルスは空間を飛び越えることはないが(空間を飛び越えることができるという説もあるが)、エネルギーは時間も空間も超えることができる。世界が創作のエネルギーでいっぱいになったらきっとそれによって人の命も自然も更に輝くだろう。

画面越しだが、そこにある躍動を受け取り、ワクワクとした感覚を感じている。2020.4.8 Wed 17:58 Den Haag