621. 一定のリズムを刻む鳥の声とプールを歩く夢

中庭から不思議な鳥の声が聞こえる。ひぐらしが高い声で鳴いているような、一定のリズムを保つ音だ。鳥かどうかも定かではないが、今のところオランダでセミの声を聞いたことはないので鳥だということにしておこう。

他にも様々な鳥の声が聞こえてくる中で、この鳥の声だけはなぜかとても目立って聞こえる。なぜだろうと、目を閉じ、耳を澄ます。二つのことに気づく。一つ目はその音質。ひぐらしのような声の鳥は、他の鳥の声と違って「濁り」がある。音の専門家ではないので自分の身体で感覚でしか分からないのだが、他の鳥の声が、その高低に関わらず「澄んで」いるのに対してひぐらしのような鳥の声は、若干の不協和音も含んだ音が重なり合っているように感じるのだ。そして二つ目の違いは音の強弱。他の鳥の声は一つの音の中に強弱があり、それは大抵、音の出だしがとても強くて、終わりに行くほど弱くなるのだが、ひぐらしのような鳥の声は音のはじめから終わりまでがほぼ一定の強さで発せられているように聞こえる。発声の方法自体が違うような、そんな印象を受ける。

鳥の声に耳を澄ましながら、聴覚と身体感覚をもっともっと磨いていきたいという考えが浮かんできた。本を読むのが小さい頃から大好きで今でも時間があれば本を読むのだが、そのためか、ほっておくと視覚と、思考ばかりを使って一日が終わったということになりかねない。でもそれは、自分自身が持っている感覚や感性の半分にも満たない。「全体性の発揮」がここのところの自分が提供するコーチングのテーマでもあるが、人は本来持っている力のほんの一部しか発揮していないのだということを自分自身を振り返ってもつくづくと感じる。

中庭の木に、大きめの蕾がついているものがあることに気づく。あの木にはどんな花が咲いていただろう。

記憶をなくしたとしても、今ここにある世界を感じていられたら、そこに安らぎや希望を感じられるだろうと、そんなことが思い浮かんだ。

最後に今日の夢のカケラを書き留めておく。
今日の夢は、道路が途中からプールのような場所になっていた。多くの人がその先にある「海」に向かっていた。(「プール」と「海」にはどんな違いがあるのかは分からなかったのだが。)その中に、中高の同級生の女性たちのグループがいることは知っていたが私は一人で進み続けた。少しの寂しさを感じながらも、結局人は一人なのだということを知っているような、そんな感覚だった。結局海にはたどり着かず、プールのような場所から道路に戻った。少し歩くととても急な坂道が見えた。「今見えるのはほんの一部だが、その先で道を曲がるとさらに急な道を登ることになる」ということを私は知っていた。過去にその道を登ったことがあったようだ。

その後、また道路に戻り、今度はプールのような場所ではなく、道が続いているところを歩いた。途中で「何となく知っている」と感じる男性と合流した。気づけば両手に収まるくらいの小さな段ボール箱を手に持っている。開けながらそれが「メールだけをやりとりできる機械」だということが分かるが、段ボールの中でさらに丸めた紙を開いたときに出てきた機械が思ったよりも小さくゴツゴツしていたので驚いた。そして段ボールと紙を捨てようと周囲を見たところ、薬屋のような場所の、販売員との間にある仕切りの下にゴミ箱のようなスペースがあることに気づく。そこに畳んだ段ボールと紙を入れようとしたところ、そこがゴミ箱ではなく、薬の受け渡しのためのスペースであることに気づき、段ボールを捨てるのはやめることにした。

薬屋の前を離れ、手元にある小さな機械を見て、「これで必要なメール以外の情報に触れなくて済む」と安堵したところで目が覚めた。2020.4.7 Tue 9:12

622. 静寂と躍動

夕食を終え、久しぶりにパステルで絵を描いた。絵と言っても、描いたと言っても、何かを意図して描こうとしたわけではない。自分の中にある動き、もしくは動きたいという感覚をそのまま紙の上に載せたという感じだ。

これまでなら画用紙を4つ切りのポストカードサイズにして、青系や赤系と言った同系色の色で描いてきた。それが今日は「もっと大きな紙に描きたい」「もっと変化をしたい」という感覚があった。

はじめの一本の線を引き、そこから、「どう動きたいか」という感覚に感覚を澄ませてゆく。ゆっくりと吐く呼吸とともに右手で線を引き、左手でその線をぼかす。意図するわけでもなく、操作するわけでもなく、美しく見せようとするわけでもなく、感覚に感覚を重ねる。

線はどんどんと変化をし、踊り出す。そして静けさと動きが一体となって現れる。

そんな風に無心で身体と指を動かす自分を見ながら、これは瞑想のようであり、スポーツのようであるとも思った。それを合わせた、サイレントスポーツというのが一言で形容できる言葉だろうか。

静かに、でも全身を持って、今ここに感覚を研ぎ澄ます。

最近はパソコンったりスマートフォンやアイパッドの画面を見る時間が長くなっていたがそうではなく、感覚と触れ合うというのも改めて良い時間だということを実感する。「最近の子どもは表面がツルツルしていると思っているらしい」というのはもう随分前に聞いた言葉だが、何でも画面を通じて見ていると、例えば油絵など凹凸のあるものを見るととても新鮮に感じるそうだ。

日本では美術館でも展示物にあまり近くことができなかったり、ガラスケースに入っていたりするがその点、オランダの美術館では展示されている絵との間に仕切りなどはなく、好きなように近づいて眺めることができる。触れることができるものもあったはずだ。

特に子どもにとっては、画面越しではなく実際にものに触れること、土の感触を足の裏で直接感じることなど、感覚器官を発達させるにあたって大切に違いない。いくら打たれても痛みを感じないゲームの世界に身を置いていると、現実世界でどんなときにどんな痛みが生まれるかもわからなくなってしまうだろう。

内なる欲求を感じ、それをのびのびと表現していくことは、人間が生きる喜びを感じる要素の一つなのではと思う。そしてそれは同時に、そのときに取り組んでいない他の領域の感覚や能力を発揮することにつながっていくはずだ。いずれにせよ、役に立つとか立たないとかそんなことさえも手放して、感じるままに表現をする活動は日々静かに続けていきたい。

昨日思い立って注文したパソコンスタンドが早速今日到着した。使ってみるとすこぶる調子がいい。画面の位置が高めになり、首が前に傾かないというのは読書をする際にも良いだろう。パソコンの下の端を支える金具の出っ張りがちょうど手首のあたりに当たり、それは若干具合が悪いのだがクッションのようなものを置くなど工夫をしつつスタンドの活用を続けたい。

できればそのうち椅子も、オフィスチェアのような長時間座っても身体に疲れが出にくいものに変えたいが、この先引っ越しをする可能性があるとなると悩ましいところだ。何だかんだ今の家はこれからの季節、中庭に面したバルコニーで読書などもできるところが気に入っているのでまたしばらくはここで暮らすことになるだろう。

空が青に包まれてる。随分と日が沈む時間が遅くなった。2020.4.7 Tue 20:55