619. 降りてくる言葉たち

 

小さなお湯のみに、沸いたばかりの湯を注いでいるときに、ふとある言葉が降りてきた。その瞬間に「これが探していた言葉だ」ということが分かった。

協働している企業から依頼を受けた、新しい商品のキャッチコピーとなる言葉だ。数日前に相談を受け、自分の中で寝かせていたのだが、「何となく今日あたり」と思っていたら、案の定やってきた。

言葉をつくるというのはいつも不思議だ。

それは突然やってくる。「考えよう」と思って出てくるものではない。いや、考えようと思って考えることもできるのだが、それはあくまで「考えたもの」であって、自分の身体感覚に響くものではないのだ。

よくアイディアもシャワーを浴びているときにひらめくというが、「ひらめき」や「おりてくる」のは、心身と思考がある特定の状態になっているときだ。頭はぼんやりと何かを考えている。考えているというよりも、「浮かんでくるもの」をそのままに眺めている。身体も、そこに「気づき」がある状態で、今ここの感覚を感じている。そして心は恐れも、見栄もなく、ただそこにある。そんなときに言葉はふわりとやってくる。

そのためには、日々、できるだけ静かに、あまり代わり映えのない暮らしをしていることが大事だと感じる。インターネットの海に飛び込むと、そこにはいろいろな感情や言葉、刺激が転がっていて、あたかも自分の中にも大量のアイディアがあるような気がしてくる。それでも、いくら探しても自分の外側に答えはない。

今取り組んでいることはどれも天に与えられた職だと思っているのだが、そんなことは、ちゃんと答えが自分の中にやってくるのだ。それは「自分のもの」ではなく、「与えられたもの」なのだが。与えられたものをキャッチできるセンサーが身体にはある。

心の中で、先ほど降りてきた言葉が「形」と一体になりたがっている。

やってきた言葉は誰かに伝わってこそそこにある息吹が芽吹くのであって、そのためには、伝わるための形が必要で、その形を見つけてあげるのも私の仕事だ。

暑いほどに差し込む光の向こう側からカモメの声が聞こえてくる。この小さな言葉の声に、もう少し耳を傾けることにする。2020.4.4 Sat 10:06 Den Haag