618. いくつかの自分、変わらない暮らし

 

バルコニーから、庭を歩く小柄な黒猫ににゃあにゃあと話しかけ、さて、部屋に戻ろうかと振り向くと、リビングの端に置いてある電気ポットの上に乗せた黒いケトルから蒸気が上がっているのが見えた。

そうだ。湯を沸かしていたのだ。

猫の姿を見ているのはほんの僅かな時間だと思っていたけれど、思ったよりもそこに没頭していたのかもしれない。「遊びにおいで」という気持ちを込めてにゃあにゃあ言ってみるも、今のところその声に呼ばれて猫がやってきたことはない。

しかし彼もしくは彼女は、やってきているのだ。1週間ほど前は我が家のバルコニーの床でごろりと横になっていたし、瞑想や読書をしているときにリビングまでやってきたこともある。私が気づいていないだけで、彼らはとても近くまでやってきている。「気づくと見えなくなるものなーんだ」そんななぞなぞのような言葉が浮かんでくる。

昨日は新しいサイトを作成する作業を行なった。これまで色々な情報をストックしてきたサイトの中から、コーチングに関することだけを別にまとめようと思ったためだ。この構想はこれまで何度か行なってきたが、実行には至らないままだった。

それが一気にスイッチが入った。スイッチが入ったときの自分の集中力の高さというのもこれまで何度も体験している。時間がゆっくりと流れる中で、自分だけが高速で作業をしているように感じるのだ。「あんなに作業をしたのにまだお昼すぎか」という感じだ。

サイトを分けるに至った理由はいくつかあるが、結果として気づいたのは、多様な自分を発揮したいという欲求が自分の中にあったということだ。言葉では説明できないことやゆっくりとした時間も大切にしたいし、一方で、計測可能なことをとことん実験してみたいという自分もいる。いつかそれらは同じ場所に共存させることができるのだろうけれど、今の私の中では、相対するものたちを同じ入れ物に入れておくと具合が悪い。ブレーキとアクセルを一緒に踏むような感覚だ。そのときそのときの自分を思いっきり発揮できるように、あえてフィールドを分けるというのが今の自分に必要なのだ。

ここ半年はゆるやかな波のようなものを感じながら日々を過ごしてきたが、ここから数ヶ月はもう少しだけ緊張と弛緩の波が大きいようなそんな毎日を過ごしていくことになるかもしれない。それがどうしても緊張の方にだけ行きすぎてしまい、弛めようと思うとこれまた極端な方向に緩めることになる。というのがこれまで自分が都会もしくは日本で過ごしてきた時間だったのだろう。

全体としてはゆったりとした時間の流れの中に、密なエリアがたびたびあるような、そんなイメージを持っているが、実際にこれからどうなっていくかは分からない。まずは内なるコール(要請)に耳を傾け続けたい。

ここ数日はコロナウイルスに関する情報を見る機会が減ったせいか、暮らしはとても静かだ。冬の間外出の機会が減っていたし、考えてみれば私の生活というのはこれまでとほぼ変わらない。それが、接触機会を減らすこと、ウイルスを運ぶリスクを減らすことにつながるなら、やはり淡々とこの暮らしを続けるだけだ。

2週間ほど前から、空焚き防止のために使った後に電気コンロのコンセントを抜くことにしたのだが、それがすっかり習慣になった。そんな風に今、「今ここにある世界」があたかも以前からそうであったかのように、「通常」になりつつある。2020.4.3 Fri 10:14 Den Haag