589. 密度の高い夢

リビングの窓についている緞帳のように分厚いカーテンを開けると、家の前の道にゴミ袋が置かれているのが見えた。今日が金曜日だということが分かる。今週は「チャージングウィーク」と称し、いつもよりも打ち合わせやセッションを減らして過ごしているが、そのせいか、曜日の感覚がいよいよなくなってきている。明後日、昼間に鳴る鐘の音を聞いて日曜日だということに気づくだろう。

曜日というのも結局のところ人間が文節をし意味づけをした物事にすぎない。その意味づけは、人が生命の輝きを発することにどれだけの貢献があるだろうか。曜日の意味があるとすれば、それは世の中にまだ多くの労働が必要なときに、その中で安息日を設けるためであって、近代化された都市では、都市機能を保ち人が暮らし続けるために必要な仕事の時間は現在の労働時間全体の30%であるとも言われている中では安息日のための曜日というのはもはや必要ないのではと思う。1日のリズムというのはあるし、大きく季節のリズムというのもあるが、その中を7日ごとに区切ることにもはや意味があるのだろうか。

咲き始める花たちには、曜日の都合などこれっぽっちもないだろう。

薄曇りの空に、だんだんと光が差してきた。数羽のカモメがゆらゆらと空を舞う。

昨晩から今朝にかけて、随分と密度の高い夢を見た。それは夢を見ているときから感じていることだった。夢の世界観に重みがあるというのだろうか。内容がシリアスだとか、予兆的だとかいうわけではない。しかし、その世界にいるのにエネルギーを使うのだ。それを私は、「密度が高い」と感じていた。

起き出して、シャワーを浴び、リビングの机の上に片付けないままになっているお皿たちを見て「このせいか」と思った。昨晩は21時を過ぎてお腹が空き、ブロッコリーとジャガイモの炒め物にマカパウダーと醤油をかけたものと、味噌汁、さらにシリアルを食べた。どれもオーガニックな素材でできたものだったが、それにしてもその時間に食べるものにしては重過ぎたのだろう。

それで、洗い物もせずベッドに入ってしまったのだから、身体のエネルギーは質の良い睡眠を取るのに向いていたとはお世辞にも言い難い。内臓の状態が夢に反映されていたとしてもおかしくない。むしろ、夢は脳で見ているものだと思っていたが、内臓で見るものかもしれないという気さえしてくる。

夢の内容は言葉で表現できるほど覚えてはいないのだが、とにかくその、何か「ぎゅぎゅっと詰まった感じ」は感覚として残っている。

こうして書きながら、夢の密度が高いと感じた要因がもう一つ浮かび上がってきた。今日の夢には知らない人がたくさん出てきたのだ。私の場合、夢に出てくる人の9割は知っている人で、その多くが中高の友人である。それは私が中高一貫の学校に通っていたということも影響しているだろう。それが、今日の夢には知っている人が出てきたという覚えがない。知らない人ばかりの中で過ごすというのは現実世界で考えてもエネルギーを使うことだ。

多くの場合、夢の中の私は20代前半くらいで、そこに中高の同級生がやはり同じくらいの年齢の人として現れる。これはどういう現象なのだろう。夢の中の自分が何歳くらいなのかというのは人それぞれなのだろうか。もっと歳を取ったら、その分夢の中の自分も歳を取っていくのだろうか。

ちなみに中高の同級生とは20代後半以降はほとんど会っていないのだが、中学生・高校生の頃というのは世の中でいう「多感」な時期であり、私もそれに漏れず十二分に多感だったはずで、そこで処理しきれなかった感情のようなものもたくさんある気がしているので、その頃の自分が少し大きくなって夢に現れるというのは納得がいくものではある。

また一つ、庭の梨の木の枝に花が咲いた。
そろそろ、今日の現実世界に目を向けることにする。2020.3.13 Fri 9:30 Den Haag