585.歌と踊りと祈りと

「世界でいちばん美しい村」という映画を観た。

2015年4月に起こったネパールの大地震の震源地近くにあり、壊滅状態になったラプラックという村の人々の姿を映したドキュメンタリーだ。

2017年の公開以降、全国の小さな劇場での上映や自主上映会が続けられており、現在の日本の状況の中で一昨日から3日間、YouTubeで無料公開されたものだった。

ネパールについてもネパールの大地震についても映画のことも何の前情報も持っていなかったが、冒頭で映し出された、カトマンズの山々の様子に目を奪われ、最後まで観続けていた。

全編を通じて湧き上がってきた問いは、豊かさとは何か、貧しさとは何か、支援とは何かということだった。それは、こういう映画を観たときに感じることとして珍しいことではないのかもしれないけれど、困難の中でも日々を生きようとしている人々の姿を見て、そう思わずにはいられなかった。物質的に恵まれた社会で育った自分が、肥大した欲望の塊にさえ思えてきた。

私たちはいつも、足りないものを埋めようとする。できない人を手伝おうとする。貧しい人たちの暮らしを豊かにしようとする。でも本当にそうなのだろうか。足りないのだろうか、できないのだろうか、貧しいのだろうか。

それは、多くのものを手にしている人、すでにできる人、不便のない暮らしをしている人だからこそ思うことなのではないか。

手に入れるほどにもっと手に入れたくなる。できるほどにもっとできるようになりたくなる。不便がないほどにもっと便利さを求めたくなる。その中には、健やかさを土台とした欲求もあるだろうけれど、その多くは、「もっともっと」と、尽きることのない欲望が出るように駆り立てられた中毒症状のようなものなのではないだろうか。

そんなことは、ぬくぬくと暖房の聞いた静かな家に住んでいられるから言えることなのかもしれないが、それでも、「まだまだ足りない」という恐れを煽ることから始まるマーケティングやプロモーションのようなもの、「足りない人」「できない人」「貧しい人」と相手を見なすことからスタートするスタンスに嫌気がさしているというのも正直なところだ。

 

『世界でいちばん美しい村』で生きる人々は、生きるために生きていた。カメラは、その様子を横並びで見つめ続ける。もう長いこと日本社会で呪文のように唱えられている「豊かさ」(これには物質的豊かさと、心の豊かさ、どちらの意味も含まれている)という言葉にはすでに疑いの心を向けてきたが、それでも「美しい生き方」というのはあるような気がした。

村の人たちは、歌い、踊っていた。

地震によって亡くなった人たちを弔う儀式で、毎年行われる魂の解放の儀式で、日々の中で。

子どもたちは急な斜面でもくるくると回って笑い声を上げる。小さな少女たちは、グルたちのマントラでトランス状態になり、目をつぶったまま、教えられてもいない舞を踊り続ける。

踊りと歌が、祈りとして村全体を包む。

きっとこうして、この人たちは長い年月を過ごしてきたのだろう。

そこには、相対的な基準に沿った豊かさや貧しさではなく、自分たちの生き方としての基準を基にした美しさがあるように見えた。

現実世界からの逃避としての精神世界の探求は望むものではないが、少なくとも飽和を超えてもなお膨らみ続ける物質的な満足を追い求めることや、何かを「もっともっと」と促すことに加担することは、心は全く持って望んでいないのだということを実感している。2020.3.8 Sun 18:23 Den Haag